都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
<41ページ>
我々祖先が残した偉大な歴史功績、都城の鳥見山霊畤、田部部落は無残にも明治
の始め政府の都合により化野の露と成り果てたのである。
明治政府はこのように崩壊したつもりでいたが、然るに豊満村の人々は今に至るまで
田部の言葉を忘れることなく未だに用いられて来たことは歴史を称える何物でもない。
更に明治政府が取った我が都域の鳥見山政策は、紛らわしさを否定したようにも見え
るが、地元の過去の実績をみるとき明治政府の万世一系の考え方は、全てをねじ曲げ
た様にも見え、それに躍らされた国民共に、何か考えなければならない愚かさが伝わって
来る。
私はこの歴史観に立ち、依り正確な情報を進めて後世に伝え残さなければ、日本の歴
史は誰も誇りに落胆為る。
都城の取見霊畤に山の中腹に祭壇と見るべき広大な平地が幾段にも段をなしと先述し
たが、この段を利用して築城した城主がいる。
史跡案内によると六ケ村城跡として、天文二年[一五三三]島津忠相の家老、山内備前
守義清築城す。金山を六段階に切り削り、北側二丁余り斜めに削り、南側堀を削り裸その
もの一石も使わず俊巌、例を見ない砦である。
球磨陣と接し下に正応寺、外山権現、屏田大明神、長谷観音、池、を控え、霧島山、桜
島を視界極限に修め、都城盆地、末吉、高城に及ぶ展望の景勝地である。
又降る雨は他の峰よりも遅く降り、一番早く晴れ上がる自然に恵まれた砦であり、守るに
堅固、監視の届く城出ある。
天授三年[一三七七]の戦いにて島津氏久、都城救う際に薩摩兵の屯所とも云われる。
享禄元年[ ]新納、伊藤の戦い、文明一七年[一四八五]伊膝、新納の戦い。
<42ページ>
北郷忠相、梅北城攻略。
足利尊氏、伊藤、北原、新納、肥後、相良、今川義元等の戦跡多く[一六〇年の間]、内戦
に人も山も川も戦跡残すも峰々は青々として、雨を求め鳥は鳴いていた。
以上、島見山六ケ村城跡案内板による説明であるが、外山権現と云う神をお祭りしている
ことである。
権現は神仏[菩薩]が権[かり]に色々なものに姿形を変えて、世の人々を救う権のお姿を
云うが、それでは外山権現は島見山を守って頂くために祭祀した権現さんということになる。
為ると鳥見山は外山村の中にあったということになる。
ここで奈良の桜井の鳥見山周辺のことを思い出して頂きたい。
奈良桜井の鳥見山の周辺を外山と書きとびと呼む。
それでは宮崎都城の鳥見山周辺も又外山と書きトビと呼ばれていたのではなかろうか。
神武天皇に纏わる鳥見山は宮崎と奈良に跨がって大きな共通した古代の足跡を残した
ものである。
中郷村史に、田部を更に古くは天邑君と唱え、天邑君を田を営む農民に依託して天邑
井田と称した。
この制度が古の田部となり、皇室及び皇霊畤の農役を司るに至った。
景行記にも、鳥見山の麓の田部は上古の皇室の料田を耕した役人、農民の職名であり
、しかも日本最古の任命を請けた田部で、後にここの田部を技術指導者として諸国に田部
屯倉を興したと記されている。
播磨風土記には[難波高津宮景行天皇の御代、筑紫に召されて田部にこの地に開墾為
ることを命ず。此のときを以って五月集聚して鳥見丘にて飲酒し宴す。]とある。
中郷村史は日本書紀を引用して、[小野榛は鳥見山の地号にして、上小野榛と下小野
榛あり]、とあるが、付近の高野と高野原が小野榛に当たり、高野が上小野榛、高野原が
下小野榛に当たるという。
<43ページ>
当都城地方は、[原]の文字を[ばる]と読むのが通常であり、高野原を[こうのばる]と
発音している。
さて古い歴史を有していた由緒ある田部部落の地名も、明治三年の明治新政府通達に
より町名改正を余儀なくされ、新郎落名、豊満部落の村名の称号を与えられた。
豊満の村名も決して由緒無い名称で無いことが、中郷村史から読み取ることができる。
鳥見山すなわち高野原の山裾に置かれた田部部落の田部の職務は、豊満つという神田
を耕作する役目で、此の田に育った稲の初穂を鳥見霊畤に供える役に、御供府の役人が
居たという。
恐らく明治三年の村名改称のおり鳥見、田部を除いて高野、豊満、後久等の村名が候補
に上がったと思われる。
豊満はとみとも読み、鳥見霊畤との関係は依然として保たれ、霊畤の時の文字は本来た
んばの田の字と寺、即ち役所を組み合わせた文字で、祭りの庭、種子を蒔く、蓄える、土が
高い等のものを生産し感謝する場所に繋がる。
当時米こそ勢力を示し、米の禄高によって勢力の順位が決まり、江戸時代まで雑続した
ことは、記憶に新しいことである。
鳥見山はいつのころからか別名トンビガ丘とも呼ばれて居る。
鳥見山が消えたころ既にトンビガ丘の名は既に存在していた。
トンビガ丘の名称は既に古くから呼称されていたと思われる。
現に奈良桜井の鳥見山の山裾の外山[とび]の町に、登美が丘神社という入り口に大き
な石柱を設けた神秘的な神社がある。
とび外山を思うとき、いつのころ誰が遥か離れた奈良桜井と宮崎都城を結び付けたか知
る由もないが、言葉のうえでは直線と共に、親子兄弟以上の深い繋がりを示しているのは
、不思議さを醸し出す。
唯決定的に都城の鳥見山がどこよりも早く存在し、流石が日向から神武天皇が海を航し
、四方を経営せんとして奈良に出向かれた痕跡の証拠を残しておられるため、その論拠を
一つここに示して見よう。
<44ページ>
鳥見山の山裾に正応寺と云う部落がある。
鳥見山の山裾から始まった日本最大の大荘園は、八六〇〇数拾町分に及び広大な米、
穀物の産物は京都宇治の摂政関白近衛家、藤原頼通に奉じる田部を初めとする農民の
汗と涙であった。
これを取り仕切り頼通の連絡を担当したのが都城中郷、田部の地頭、平季基である。
平季基は頼通に学び、鳥見山の山裾に大荘園の寄贈の見返りとして、広大な京都の
写し絵を齊した。
此の京都の初めのテストケースの一つが正応寺であった。
季基の正応寺の創建は頼通の推挙を請けた天台宗を取り入れ、三井寺、延暦寺、日吉
大社がモデルである。
正応寺の本専は傳教大師最澄の作と云われる薬師如来で、延暦寺の本尊、越前の栄山
寺の本尊等三体のうちの体である。
正応寺の前身、鳥見山と金御岳の谷間は、神武天皇こと邪馬壱国の卑弥呼の宮殿跡地と
目される場所である。
実は此の谷間には古来依り妖気が漂っている噂が流れていた。
都城教育委員会が立てている鳥見山、六ケ村城跡の案内板にも書き示されているように[
鳥見山は展望の景勝地である。又降る雨は他の峰よりも遅く降り、一番早く晴れ上がる自然
に恵まれた砦である。]
これを妖気と云わずして此の案内板では前後の様子が伝わらない。
地元の人達でさえつい最近まで此の現象を理解しえなかった。
近年、鳥見山の隣山金御岳四二一Mを利用して、山頂に幅広い滑り台のようなものが設
置された。
始め山頂に板囲いして何が始まったのかなと云う程度だったが、ある日上空に大鳥の足に
掴まった人間が上空にばら蒔かれている。
どこから来たのかなと不思議に思っていると、やっと滑り台に目が届いた。
<45ページ>
金御岳山頂はハングライダーの基地と化したのである。
これによって妖気漂う雨の行方も私なりに理解し得たのである。
ここは上昇気流のメッカだ。
金御岳、鳥見山、千穂の谷間から巻き起こる、古来から与えられた大自然の恵み、好条
件を利用してハングライダーのスポーツが始まった。
所が多面太古の昔より野鳥の大群は、此の地を休憩する安息場所として見逃してはいな
かった。
其の中に差し羽と云う島見山に相応しい渡り鳥がいる。
差し羽は金御岳と鳥見山の山間周辺に飛来して、羽を休め飛び立つが誠に神秘の鳥で
あったに違いない。
鳥見山、山間周辺に発生した上昇気流は高さ一万メーターに及び霧散するが、差し羽も
又気流とともに一万メーター舞い上がる。
差し羽が舞い上がりながら天空に消え行く姿は、他の鳥に無い特徴を見る。
天に聳えた直径十数メーターの円筒のぐるりを雄大に流れるように、何かはしゃぎながら、
或るときは螺旋階段を規則正しく上るように、ぐるぐる回りながら一万メーターに消えて行く。
上昇する差し羽の一つのグループ単位は様々だが、私が双眼鏡で確認した限り、始めは
五羽とか十羽で始まるが他にできたグループと合流して、二十羽とか三十羽の一群れを構
成し都城盆地を背景に、民族舞踊を展開する。
まさしく宇宙を背にした見事な霊峰高千穂の大舞台である。
群れは彼方此方に発生し、鷹柱となりやがて宇宙の色に染まる。
此の山裾に寺柱と神柱の二た柱がある。
神柱は明治の初め遷宮して都城の市内に鏡座したが、宮崎県内では人気者で、都城付
近の人なら子供から大人まで知らない人は誰もいない。
<46ページ>
差し羽の鷹柱を両柱が挟んで何か意味ありげである。
この大舞台は年二回、春の五月一日から五日ぐらいがピークを向かえ、秋の十月十日前
後が見ごろである。
差し羽の五月の波りは鳥見山の山間から始まって、黒潮の流れる上空を奈良、和歌山
方面を目指して滑空し日本アルプスに帰って行く。
差し羽の一群れが伊良湖岬に終結しているのを多数の人が確認している。
日本野鳥の会、宮崎在住、鈴木素直さんは二年前此の鳥を研究すると云われ、青森県の
方で差し羽を発見したとという報告を受けたと話された。
更に差し羽は長野県の日本アルプスの山中で夏の間子育てしながら棲息し、秋の十月産
卵から成長した若鳥を引き連れて都城の鳥見山周辺に終結し、上昇気流に乗って南方方面
に飛び去って行く。
差し羽は羽を広げると、百二十CMから百五十CM位の大鳥である。
背面は茶褐色だが、胸や腹部は尾羽まで含めて純白である。
顔は精悍で下の方から見ると、見方によっては勇猛な白鳥に見えないことも無い。
四月頃から次第に数を増し、南方方面からやってきて、五月初旬にはそのピークを迎える。
数日体力を癒し、山間に発生する特殊な上昇気流に乗って、一気に黒潮ラインを奈良県
御所市の国見山、日本武尊白鳥陵の方向に進行し、推古天皇の甘樫の丘の宮殿、飛鳥
、桜井の鳥見山、榛原の鳥見山を経て日本アルプスの山中に消えたとしたら話が余りに
出来過ぎるだろうか。
差し羽は魚介類を好まず、蛙や蛇の類いで、一万M上昇すると直滑空で三百KM、都城
を出発すると黒潮で四国沿岸、或いは瀬戸内沿岸、此の地で羽を休めて奈良山中まで六百
KM、日本アルプス迄三度日の九百KM,三泊二日の長旅である。
<47ページ>
此の発想は満更でも無い。
日本野鳥の会の成果が待ちどうしい。
私は古代史における国見山の発見と研究者であるが、古代の糸は、今発見され、或いは
発掘されて居る天皇家、或いは地方の大家族のもの、これから発見されようとするあらゆる
ものは、全て国見山が関係ずけられていることを確信して居る。
勿論先述したとうり此の鳥見山、山々も疑い無く国見山が介在して六百KMに及ふ長距離
を奈良榛原から宮崎都城鳥見山屹僅かに一千分の一程度の誤差で、都城の鳥見山−奈良
県御所市の国見山−甘樫の丘−飛鳥町−桜井の鳥見山−榛原の鳥見山、が直線によって
結ばれている。
山岳の場合に限り、山岳の頂点を通過することは言うまでもなく、誤差の測定は山岳の
頂点からどの程度離れたかによって決まる。
漢字に至ると云う文字と到と云う文字がある。
この至ると到は使い分ける必要がある。
至るは、弓矢の矢が土に突き刺さるほど目的に向かって直線的であり、到は刀の反りの
ように曲がりながらも、目的地に到ということである。
私の国見山の直線は至るの場合であり、差し羽の直線は知れる限り本能に向かい、到で
あろうと思われる。
さて話が中断したが、都城の鳥見山、御所の国見山、桜井の鳥見山、榛原の鳥見山、此
の天空の科学における直線は飛鳥時代を反映する飛鳥町をも網羅している。
人は偶然と片付けるかもしれないが、差し羽と飛鳥時代には悠久のロマンがある。
確かに時代は景行天皇と推古天皇と時代の差は歴然としているが、天空の科学によって
時代の前後の判断や、関係を明確に浮き彫りさせることができるかもしれない。
<48ページ>
例えば御所の国見山の横百M以内の地点に景行天皇の第二子日本武尊の白鳥陵が大
小二つが並んでいる。
仮に国立大学の先生方で共のような古墳は認められないよと云う方が居ればその方は
神ノ国天皇批判に繋がり、国立大学に勤務する資格は当然無くなり、呉れ呉れも賛同頂
ければ私の説が益々確立される。
私の友人で郷土史家、三又たかし氏、宮崎市内在住、は[黒潮ロマン日向灘を行く]の
著書の中で、黒潮のルートは赤道付近の高気圧から発生して生まれ、フィリピン、台湾、
沖縄列島を経て奄美大島近海で日本梅に流れ込む支流ができる。
本流はやがて日向灘、四国足摺岬、和歌山沿岸部、更に愛知県の伊良湖岬えと到。
このルートは差し羽が渡るルートとほぎ同じであると、書かれている。
私は翌日も差し羽の群れを見るために金御岳に登った。
この日は、人の出の混雑は昨日より落ち着いていた。
鷹柱は昨日と同じ、一群又一群、其の土地の気象が発生させる上空の気流に溶けながら
湧き出す上昇気流に纏わり付いて、一万Mの対流圏に舞上がる。
やがて流されるように見えなくなるころ、高速のハングライダーに変化して奈良、和歌
山の森深く、着陸するに違いない。
突然見事な差し羽が、今にも折れそうな木の天辺の小さな梢に姿を止めた。
精悍な顔付きで、大群衆に脅える様子も無く、白い胸元をこちらに向けて、颯爽とご挨拶
の愛嬬を振り撒く。
観衆の双眼鏡の間から深いため息が漏れる。
其のとき又鷹柱が一つ、一つ、又一つ、彼方此方に一つずつ増えて、霊峰高千穂を背景
に天空と一体化した都城盆地の上空に立つ、透明な円柱のぐるりをゆっくり、ゆっくり揺れ
るように上昇する。
<49ページ>
見事見事にざわめきが起こる。
梢の人気者、差し羽が遅れを取るまいと大きな羽を広げて、頑丈な枝に移り変わった。
見事な羽を羽ばたき枝をキックした。
上空に舞い上がる瞬間である。
昔岐阜県の鳳来寺に仏法僧を聞きに出掛けたことが有る。
夜中中、今か今かと鳴き声を待ち佗びたことか。
兎に角、差し羽の上昇は、大自然、大字宙に溶け込んだ天空のドラマである。
ほんの僅かなショウタイムだが、余り皆に知られていないのが残念だ。
見ごろは五月の連休か、十月の十日前後で有る。
差し羽の舞台は一度、五月を見ると十月の波りが待ちどうしい。
古代人は差し羽を捕らえて羽を剥ぎ、矢の一端の剥本から羽を取り付け、矢の推力を増
す原動力の燃料とした。
倭国女王卑弥呼は魏国朝廷に木付短弓矢[もくふたんきゅうや]を献上した。
都城は今も昔も弓矢の生産高は技術力も含めて全国の九十%を誇っている。
一九九九年の世界弓道大会は都城で開催された。
中国周代に始まった学問、六芸の一つ射の学問は言うまでもなく弓術のことである。
悠久三千年、弓術はスポーツとして生きている。
木付短弓矢の木付短弓とは、弓の握り部分が木製で、動物の皮を使って其の部分を補
強し、矢を番える武器のこである。
矢について先ほどの説明を補うと、一端の羽は鷲鷹の中で差し羽が最上のものとするが、
今は手に入ら無い。
弓矢から割り出した倭国の武力戦闘集団の位地付けは、中国皇帝に献上した自身の程
と遼東公のことを思うとき極東アジアにあって親魏倭王の称号は相応しいものであったと
想像できる。
<50ページ>
差し羽は差羽と書いたり翳[かげり]と書く場合がある。
鷲鷹日の鳥で、鷲ではなく鷹の一種で鳶に似たところもある。
鳶は鴟、鵄共書き、差し羽と同じ鷲鷹目の鳥である。
体は鳶色で翼のしたに白い斑点がある。
泣き方に特長があり、ピーヒョロロと鳴く。
日本を始め、中、東アジアに広く分布し渡り鳥ではない。
市街地や海浜に多く、小動物の死骸を好んで食べる。
金鵄勲章とは神武天皇東征の折り、長髄彦[ながすねひこ]を征伐したが、其のとき弓
の先に止まった金色の鳶を金鵄と云いそれに囲んで武功のあった軍人に、手柄の程度に
従って功一級から功七級までの何れかを授与した。
明治二三年に制定し終身年金を賜ったが、昭和一六年一時金に改正された。
現在は廃止されている。
差し羽は天皇が即位、朝賀等の大儀のとき、高御座に出御して群臣の拝賀を受けるが、
此のときの差し羽は翳と書き、壇の下の女嬬が翳の羽で軍配団扇の形に作り、其の下に
一丈から一丈二尺の長柄をつけたものを差し翳し、体を覆った。
学術的に説明されている差し羽の姿は、背面は褐色、尾羽ねに黒色の三、四条の横縞
が有り、胸、腹部は白色で有り、山地、森林の蛇、昆虫、小鳥等の小動物を主食とする。
金御岳の案内板には、夏鳥として四月初めから五月上旬、数羽から数十羽の単位で続々
南方方面から日本に渡って来る。
<51ページ>
九月下旬から一〇月末にかけて、多いときには数千羽の大きな群れで、南方方面に帰
って行く。
差し羽の数は、推定三万五千から四万羽である。
都城、金御岳、息見山で一九八六年、およそ三万羽をカウントした。
鳥見山と金御岳の山間は、日本国内で数の出る場所として、三本の指に入る。
宮崎、鹿児島ルートは大正時代、既に確認されていた。
一度飛び立ち一気に渡る距離は、最長沖縄本島から宮古迄三百KM、五時間を越える渡
海である。
繁殖地は、日本海を囲む地域で為るが、青森や北海道では繁殖しない。
越冬地は、東南アジアやとフィリッピン、ニュウギニア等沖縄で越冬するものもいる。
泣き声はかん高い声で、ピイックイーと鳴く。
差し羽と鳶、渡り鳥と地鳥、同じ鷲鷹目、背面は褐色と鳶色、胸部と腹部は白色と鳶色、
食事は森林の蛇、昆虫小鳥等、そして方や小動物の死骸や魚である。
上昇気流に乗り上空一万Mをスタートして一気に三〇〇KMを駆け飛ぶ渡り鳥、方や市街
地、海浜に住み着く、地元鳥、比較すればするほど差し羽に軍配が上がる。
これも大安万侶の知り尽くした上での奥深い配慮に依るものか。
神武天皇は日向鳥見山の出身である。
鳥見山に精悍な波り鳥、差し羽が決まって五月、十月に帰ってくる。
差し羽でできた弓矢を神武天皇こと倭国女王卑弥呼は中国、魏の皇帝明帝に二三八年
戊午六月、献上し、その年の十二月、親魏倭王卑弥呼の称号を明帝より授与される。
還暦により実年齢になられたお一人の神武天皇は其のころ二三八年戊午十二月遂に進
みて長髄彦を討つ。
これは奈良東征を果たした証しとする、大凱旋の始まりの日である。
<52ページ>
此のとき神武天皇の弓矢に止まり味方になったのが、金鵄である。
二三八年戊午の歳は、御両人にとって誠に鳥見山とご縁の深い日である。
卑弥呼は享年七六歳であったが、神武天皇の崩寿は一三七歳の還暦六〇年を干支に傷
つけず一ランク引き上げると本来の年齢七七歳になり、数え年を考慮すると全く重なり合って
くる。
以上のように神武天皇と卑弥呼の係わりは全く同一人物と断定しても過言ではない。
神武天皇の東征後の場面を短く描写し、卑弥呼宗女壱与の活躍を一部担われ、即位後
間もなく崩寿された。
奈良県曽爾村に国見山と言う高さ八八三Mが存在する。
国見山から隣り村の榛原にある鳥見山を結び延長して景行天皇陵を越え日本武尊御陵に
至り、更に延長すると峰ケ塚古墳に至る。
直線で示すと次のようになる。
曽爾村、国見山−榛原、鳥見山−景行天王御陵−日本武尊御陵−峰ケ塚古墳
此の直線は山の頂点から頂点を結び、御陵と古墳の中心を貫通した直線である。
峰ケ塚古墳は大阪府羽曳野市にあるが、此の古墳と百七十号線を挟んで東側に日本武
尊御陵がある。
御陵の町の名前は羽曳野市白鳥町と言う。
景行天皇郷陵は奈良県天理市渋谷町、山の辺の道にある。
景行天皇は第十二代、名を大足彦忍代別[おおたらしひこおしろわけ]と言う。
熊襲征伐等をした天皇で、日本武尊は天皇の皇子である。
日本武尊も景行天皇の命を奉じて景行二七年、西暦九七年、熊襲征伐し其の首領、川上
梟帥[かわかみたける]
を誅し、其の死に臨み日本武専の幼名、日本童男「やまとのおぐな]に武勇を称え日本
武尊の号を献上した。
<53ページ>
日本武尊は病に倒れ、若くして享年三〇歳で亡くなられた。
伊勢の国の野褒野[のほの]に葬る白鳥と化し御陵から出て、倭の琴弾わ原に居り、其の
地に陵を造ったがしかし又飛んで可内の旧市の邑に止まったので此処に御陵を造った。
国見山を介した直線の事実は榛原の鳥見山、桜井の鳥見山、都城の鳥見山、が結ばれた
直線にも御所の国見山が介在している。
現実が伴うか伴もわな無いかは謎の部分であるが、例えば推古天皇の飛鳥文化は鳥見
山三山の直線が示す、差し羽が介在して銘々された名称かも知れないし、日本武の命の白
鳥を採用したかも知れない。
しかし差し羽の大鳥を知りながら鳶に見せかけたり白鳥で表現して古代王朝の神秘性を
演じた太安万侶とは、如何なる人物か、興味ある課題である。
白鳥最後の安住地は河内の旧市、羽曳野の古市である。
羽曳野はいつ頃から其の名を留めたか知らないが、白鳥にとってこれ程安住の場所はない。
羽の字は鳥の羽のことであり、鳥の左右の羽の形を表した文字である。
曳くの文字は、口から言葉を出す様子を表し、言語、行動、行為としての引っ張る、引きず
るの意味である。
野は里と予からなり、里は田と土、縦横に道のある村里で、土も道路のことである。
予は大きな像のようにゆったりしていると言う意味で、広々と伸び広がっている村里、
田畑林を表す。
羽曳野はゆったりした土地に引き込まれる様に、羽を休める場所である。
日本武尊こそ差し羽の白鳥の謎を説き明かす中心人物かも知れない。
|