邪馬壹國 奈良県五山の国見山岳<1>
    都城の邪馬壹國
                              著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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もう四、五年位前の春日和である。

 当時九十歳になった、歴史好きな親父を連れて御所の国見山二二九を見に行った。

 側で見ると少し高い丘という感じだ。

 奈良の春はお水取りも終わり、陽気が漂ってニ上山や葛城山、金剛山は薄紫の霞

が棚引き、山の淡い緑の色は、霞の間から春萌えをはっきりと覗かせていた。

 畑の農家の人達は、耕運機も使わず何か忙しく、昔なりの方法で鍬等を使って畝を作り

、種蒔きから水やりまで手作業で働いていたのを印象的に記憶している。

 働く姿は古代を忍ぶ国見山と相俟って、さすがその古風さに胸打つ思いがした。

 国見山の山裾からニ、三十M位の近い場所に、一目で古墳と分かる大小二つの森がそ

れぞれ独立して西の方向に並んでいる。
 古墳のうえは深い木々で覆われ、緑の木漏れ日の薄暗い薮の中に社のようなものが、明

るい春の日ざしと対照的に暗く浮かび上がっている。

 古墳は日本武尊の古墳で、道路の終わりである。

 その終わりの左側東方向が国見山で、右側西方向に二つ並ぶ古墳が白鳥陵である。

 古代の国見山を瞑想の中に閉じ込めて佇んでいると、古代の人々が多数集り、聞き取

れぬ言葉で語りかける。

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国見山、高さこそ二二九Mの低い山だが、古代奈良王朝の入り口として決して忘れてなら

ない守護神である。

古代神話の国、日向宮崎と奈良を結ぶ鬼神の山である。

日向の国から渡った古代人は、親、氏長、卑母の蘇生は国見山にあると信じていた。

それ故、国見山を中心に礼拝堂から墳墓を拝し、その的とした。
墳墓が独立して適当な場所に一つだけ建ったということは、此の時代決してあり得ない。

墳墓は国見山か類似した霊力を有すると権力者が認めた物体を起点として方位方向を定め

、国見山か或いは物体と直線を結び鉛直線に墳墓を埋めた。

 奈良の場合、権力者が認めた物体とは、申石、亀石、酒船石、益田の岩船、岡の酒船石、

鬼の立石、須弥山、岡の立石、祝戸のマラ石等、幾つもある。

 物体は、ある時は国見山の役割を果たし、或いは国見山と結び付いたと思われる。

 何故これらの疑物体が必要だったのか。

 国見山と或る一つの古墳を築造して、国見山の頂点と古墳の中心二点を単に結ぶだけでは

、当時認められない行為だった。

 即ち、国見山と古墳、更にもう一つ、或いはそれ以上、場合によっては認められた山岳等、

常に三点以上中心部分を貫く直線により結ばれる規則があった。

 規則を守るために重宝されたのが、此れらの物体である。

 諸先輩方で出城や本丸、神社、仏閣、或いは中世以前の宝仏の埋蔵が方位的に一体と成

っていたり、守護神に触れられると恐らく此の方向は何かが潜むとか、そのように感じた方々

は沢山おられるし、又おられたことは充分承知している。

 単純な方位を見て太陽線が関係するとか、城の背後に神社仏閣があれば守り本尊である

とか、方避けをそのまま採用してもなにもそれ以上に考えず北や南の方向に線引きし、一般

に人々の信任を得るに到らぬことが殆どである。

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 私はこの事柄を基礎として国見山や鳥帽子と出会い、更に深い謎に追求の手を伸ばすこと

が出来たことである。

 二十一世紀も間近に迫り秒読みの段階にはいった。

 いつまでも建設会社の掘削の、後追い調査だけの古代史では誠に残念である。

 政治や医学その他諸学問は、種々の制限を受けながら時代を旨く切り抜けて、栄光の

歴史を誇っている。

 古代史は言論の統制や皇国史観に阻まれて、戦後五十有余念、やっと真実の世界

になった。

 歴史は善きにつけ悪しきにつけ、勝者、敗者の別なく真の歴史の重みを国民は知る権

利がある。
 真の歴史を知らされることにより国民は責任の重大性を感じ、微力ながらお互い国民の

誇りを感じながら自覚を以って、公に協力することができる。

 私が国見山、鳥帽子山に注目して既に十数年経過した。

 平壌と高千穂を結ぶ直線から端を発し、次第に応用の範囲も解明し、始め路線や駅の

時代から当時の一般家庭に溶け込み忌みの立場に及び、先祖崇拝、権力誇示まで発展した。

 遠方の天子や朝廷、郡の宮殿にも国見山が利用された。

 高千穂と国見山岳の関係は、世界に類例の無い山系として中国人は捕らえ、象形文字

の山の字に当てていたのを今に至って再発見するに及んだ。

 更に国見山から宮崎県川南に古道らしきものが浮かぶ。

 詳しい事は今検討中である。

 国見山と高千穂峰から割り出した鹿児島県鹿屋の道路網の不思議さは、役所に幾度

か出掛け逆に聞かれても否定も肯定も無かったが、私の友人に紹介して賛同を得てい

ることからもほぼ古道に違い無い。

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これらは全て国見山の産物であり、国見山があればこそ発見する事が出来たのである。

 現在の国見山は古代の標識で、世界の古代と通信のできる手段である。

 九州と奈良以外詳しく国見山の拘わりは調べて無いが、九州や奈良の上空は国見山

の通信網で溢れている。

地図上に見える国見山は、古代を確認することのできる生きた化石である。

未だ発見されていない重要な古代の部分が、国見山を見出したことにより、更に古代に近

ずき新しい発見に繋がると信じている。

地図上の山岳の頂上の位置等、地図会社により緯度、経度の座標が少しずれている場合

がある。

それは幾種類かの地図で確認するしか方法がなく、出来る限りよく見比べながら、中央

部分を通過した直線のポイントを使う様にして山岳に限り若干頂上の状況に応じて相違

を認めざるを得ぬ場合が生じる時もある。

特に奈良の場合神社仏閣の記号は、出来る限り中央部を通過している場合だけ採用す

るようにして、記号をかすりもしない場合は失格である。

 このことは、城や古墳も含め厳しく、全て共通させなければ成らない。

 又、山の場合も同様扱うべきである。

 国見山の働きが今日まで気付かれなかったのは、国見山と連帯する他の一つが大半

主役を演じていたため、そこに正か国見山が介在していたとは気付いた方が不思議な位

である。

即ち、世間が認める遺跡類が、各自独立してるふうに見えたからである。

 国見山が設けられて規則を守り、そして発展と氾濫、滅亡と言う過程を通過しているとき、

古墳という遺跡は神秘を漂わせ一人静かに生きつづけていた。

 此の現象の中で忘れられた国見山が、人の目に触れず今迄暗闇に生き延びたのは見

事である。

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扠、私の目の前の御所の国見山二二九は、飛鳥に於ける墳墓や事跡について知らない

ことが無い位、古代奈良王朝と関係すると自ら豪語する。

 奈良県御所の周辺は小高い山に囲まれて、外側の平地部分の南端に位置する国見山は、

大阪と奈良を二分する金剛山地を目前に、御所の東山麓に連なる海抜二二九Mの小高い

丘の形状をして、目の前では数十Mでしかない。

 近隣の農家の人の話では、国見山の山頂に石柱があったと言う。

 国見山を起点として、我が国の伝統と文化を誇る先祖、先人の大古墳群は奈良盆地の北

東部に多く見られる。

 現在の地図上に示される、奈良県の国見山は五山である。

 私は御所の国見山を総じて、国見山御所二二九、五号と称している。

 一号から順次書き出すと次のようになる。

 国見山曽爾村八八三を一号と称す。

 国見山曽爾村一〇一六を二号と称す。

 国見山東吉野村一四一九を三号と称す。

 国見岳大峰一六五五を四号と称す。
 私は国見山五号から連なる各々の、神社仏閣、遺跡、古墳、山岳の発見を直線で列記

して見る。

 中に歴史好きな人なら必ず知っている有名な名称が、直線の上に登場するから、頭の中

に印象ずけて頂きたい。

 国見山、二二九、御所市、五号

一、国見山二号−談山神社−小島寺−国見山五号−千早城跡−地蔵寺

二、国見山一号−西山岳−音羽山−桧隅廃寺−国見山五号

三、石舞台古墳−於美阿志神社−国見山五号

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四、栗原寺跡−岡寺−中尾山古墳−国見山五号

五、墨坂神社−定林寺跡−束明神古墳−国見山五号

六、天王山古墳−マルコヤマ古墳−国見山五号

七、山田寺跡−飛鳥坐神社−菖蒲池古墳−欽明天皇陵−国見山五号

八、榛原鳥見山−桜井鳥見山−岩屋山古墳−国見山五号−高宮廃寺跡−足摺岬−宮崎

赤江−都城鳥見山、現トンビ丘

九、天神山四五五−長谷寺−等弥神社−牽牛子塚古墳−国見山五号−御歳神社

十、宗像神社−甘樫丘−鑵子塚古墳−国見山五号

十一、茶臼山古墳−文殊院西古墳−甘樫坐神社−国見山五号

十二、巻向山五六七−大宮大寺跡−円山古墳−国見山五号−高鴨神社

十三、景行天皇陵−箸墓古墳−藤原宮跡−本薬師寺−国見山五号

一四、三輪山−天香久山−国見山五号

十五、耳成山−橿原神宮−国見山五号

十六、正暦寺−神武天皇陵−畝傍山−国見山五号

一七、春日山石窟−新沢千塚古墳群−国見山五号−水沼古墳

十八、円昭寺−善福寺−和爾神社−国見山五号−藤原武智麿墓

十九、般若寺−興福寺北山八間戸−幸福寺−鏡作神社−国見山五号

二十、平城宮跡−髄に瑞尼院−国見山五号

二十一、神功皇后陵−郡山城−糸井神社−国見山五号
 

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