邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳<4>
    都城の邪馬壹國
                       著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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 例えば天孫降臨について、[恐らくは又西路によりて肥前の北岸に着き給ひきと信ぜら

れしものか。更に阿蘇より五ヶ瀬川上流なる今の高千穂地方に着き給ひしものと解すべき

が如し。更には又これを霧島山なりとする説に就いてみれば、筑後より南下して球磨川の

流域に出て、内地に進みて、わが日向に入り給いしものと解する。

我が大和民族の祖先たちの長い間に作られた理念の歴史に、荒唐無稽な部面ありとして、

神話を貶称[へんしょう]するが如きことは絶対ないようにし、神話は神として、又伝説は伝

説なりに信仰的態度で受け入れ、高天が原とか、高千穂宮居とかにつき、その所在地を付

け決定して我意を張るか如きことをなしてはならないが、歴史学的見地から理なり。]

 これが歴史学者の基本としたら、反発するものは国家の反逆者となる。

 誰の話か忘れたが、鳥見山の周辺に古墳の一つも無いのは、大正の末連隊が古墳調査

を目的に次々に田畑に変えたと言う。

 桜井の鳥見山の場合、山裾に外山と書いてトビと読み、登美が丘神社、等弥神社等何か

トビと関係していそうな不思議さを醸し出す。

 まして、等弥神社の祭神はトビである。

 等弥神社の宮司さんから鳥見山について話を聞かせて頂いた時、トビの遺物は鳥見山と関

係してとは言われず、全く自然体だったのを記憶している。

 都城の場合も、鳥見山の山裾は豊満又は、田部と言う。

 豊満はいつのころなずけられたか今となっては知る由も無いが、豊満は方言で聞くとトッビッ

と聞こえる。

 又鳥見山を誰もトリミヤマと言う人が無くトンビが丘が日常用語で有る。

 鳥見山は古文書か古い手書きの鳥略図の説明でしか見当たらない。


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 この豊満の町が実は田部と言う部落である。

 田部は古代皇室の料田を耕した役人農夫の職名である。

 多分この田部は、日本最古の田部で後にこの田部を手本として諸国に田部屯倉を興した

ことが、景行紀に記されている。

 又、幡磨風土記には、次の一文が有る。

 [難波高津宮天皇の世召す築紫田部令懇此の地の時以て五月集聚此の岡飲酒宴]

 古事記によれば田部を古代、天邑君[あめのむらきみ]と称した。

 此の制度が進み営田を臣民に委託して、これを天邑井田と言った。

 更に此の制度が田部となり、皇室、皇朝の農役を司るに至った、と有る。

 田部の職務は豊満と言う神田を耕作する役目である。

 此の田に生じた稲の初穂を鳥見廟に供える役は、田部でなく御供府があった。

 御供府は例期に、稲の初穂を鳥美廟に献上した。

 此の御供府の役人の住み着いた土地を御久と言ったが、今は後久の名で現存している。

 神饌の儀がいつのころか無くなり、はっきりしたことは分からぬが、太宰大監平季基[だざ

いだいかんたいらのすえもと]が鳥見山々麓に居を構え、子孫代々富山を称するに至り、この

ころまで神饌の儀をつづけていたと考えられる。[中郷村史はこれは誤りと言う]

 大監の移住は御一条天皇の万寿年間と言われるから、この頃無くなったのもかもしれない。

 鳥見山、豊満、富山、トンビ丘、等弥神社、外山[トビ]、登美が丘神社、トビの祭神、飛鳥、

日本武尊白鳥陵、と国見山これらを全て鳥で、一本の線で結ばれているように思えてしかた

が無い。
 更に日本武尊に至っては、父なる帝、景行天皇と御陵を国見山の直線で完全に直結され

ている。

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 此れなどは間違いなく、人為的に工作されているとしか思えない。

 飛鳥時代を広辞苑で見ると、次のように書いてある。

 奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古天皇の時代、本は美術史の時代区分である。

 推古天皇[三十三代]時代について三つの諸説がある。

 @ 仏教渡来六世紀半ばから大化改新六百四十五年まで

 A 推古天皇即位五百九十三年から平城遷都七百十年迄

 B 仏教渡来から平城遷都迄

 以上の諸説が有ったが、今では六世紀末から七世紀前半とするのが一般的である。

 飛鳥地方は奈良盆地南部の一地方で、畝傍山と天香久山を結ぶ線より以南、飛鳥川の

扇状地を指す。

 飛鳥川は奈良県高市郡稲淵川を発掘、明日香斑に入って北流、大和川に注ぐ。

 長さは三十二KM 淵瀬の定め無きことで聞こえ、古来和歌に詠ぜられている。

 推古天皇第三十三代帝の名は豊御食事炊屋媛[トヨメキカシキヤヒメ]という食堂のよ

うな名前である。

 都城の豊満ともよくにていて、米の大事さがよくでている。

 古代の上層部の人達は、渡来する色々の制度を取り入れ制度を左右できる立場の人

は、官爵或いは一族にその名を付した。

 額田部[ヌカタベ]は屯田につながり、諸県君等、朝廷制度で無かったが、その立場に

見合うものは諸王、彦公、主、君の何れかを名前に取り入れ、王朝の皇子でも王公に封

ぜられた。

 古くから国造制度は朝廷の命により行われたが、その立場にある国造り、県主、稲置

の職にある人は、領内の土地や人事は動かすことが出来た。

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 領内であっても動かすことのできぬ物も多数有った。

 朝廷の所有地や神社領、貴人の関係する物である。

 後世の国司、郡司、里町と変わりは無い。

 この中でも決して自由に出来なかった物は、朝廷の領有地である屯倉である。

 垂仁天皇垂仁記二十七条に[屯倉此言弥夜気]と有る。

 屯倉は屯家、官家、三宅、御宅等の文字を当て、全て[ミヤケ]と言った。

 屯田、三田も屯倉の中に当然含まれる。

記紀の田部は、屯田、即ち帝領の屯田、神田を耕作する民のことであると中郷村史にある。

旧中郷村に豊満田部、の部落が有り、そこに古くて由緒ある創建不明の御年神社が有る。

 宮崎県西都市の三宅は屯倉が有ったところから[ミヤケ]の名を残している。

 中郷村史に、同様に中郷の田部も同じ由来があったと思われ、この田部付近の方が早く

開けていたと思われる。
 ここに古墳が無いのが残念で有る、と書かれている。

 果たしてそうとばかり言い切れるかどうか、郷土史家は西都の屯倉と西都原の古墳の関

係を頭に描き、古墳が無いことを残念がっておられるが、一概にそうとも限らない。

 一族の死に対して弔うことは当然だがm葬る場所を居住地の近い所においたかどうか

疑問である。

 使者に階級があり、家柄によって葬る地蔵又は所有地が定されていたと思われる。

 その点、身分が高ければ制約が厳く、九州王朝時代は奈良の古墳が立派であっても

それを羨むことは無い。

 時代が経過するに従って自然に環境の整備と社会情勢に即応して整い、規模が発展

したとも考えられる。

 西都原古墳群も古代奈良朝前に当たり、奈良に規模は及ばない。

 都城の旧中郷村は大開発によって地形を荒らされた形跡がないから、遺跡に恵まれる

かもしれない。

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 唯心配なのは律令の時代の墾田や、平安の荘園の時どの地域にどの程度、遺跡破壊

が有ったかである。

 中郷で古墳遺跡が有ったとしても、規模で西都原に及ばぬかも知れない。

 更に考えられることは、古代大和の時代は、古墳は権力の象徴の波に乗っていた時代

であり、九州王朝時代は小規模古墳の円墳やシラスの山の祠時代であり、古墳や祠を方

位によって確認礼拝し、起居する近辺に死者を寝かせる行為を忌み嫌った。

 この思想が始まりで、次第に奈良の権力の祭りに変貌したと思う。

 それが宮崎の場合、高崎町の群集墳や古墳、或いは高城町、志和地、川南、高鍋、西都

原に比較的初期のものから中期の始めのものが見られる。

都城の場合、市役所近辺から、市街地は古代は完全に湖沼で、現在でも牟田町や島津の

名を留めている。

 例え、1cmの水位があってもその上の水上都市はありえないし、遺跡の面影等望める

はずもない。

 となると山裾の隆起扇状台地か古代河川の沖積地、或いは山間の水捌けの良い山崩

れしない丘が居住に適する場所になる。

 豊満の鳥見山は、高千穂峰の東南に位置して何も遮るものもなく、霊峰高千穂の気高さ

を一身に受ける一等場所で有る。

 日当たりが良く風雨の災害は受けがたく、敵の守りに堅固な場所、それに広大な穀倉地帯

、大淀川の源流、志布志湾に流れ込む安楽川の源流、ともに反対方向に流れ出る分水の地

帯でもある。

 小河川で氾濫の心配も無く、水枯れも無い。

 この地に鳥見山が有る。

 又、この山並みは、奈良盆地の三輪山から飛鳥を見る、連山によくにている。


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 中郷村史による鳥見山の紹介は、次のように書かれている。
 巡らす山岳は何れも奇しびな物のみであって、万古の神秘を秘めているかのように見

えるが、とりわけここに屹立する山が、鳥見廟岡[通称トンビが丘]の丘陵である。

 都城東南一里半、鵜の岡の西南、鷹取山の東北に連なり、この山系が金御岳と安久川

を境にして対峙している。

 この安久川山谿両側を千穂と呼び、この名称が高千穂峰の名を起源をなしている。

 その山谿から通ずる高地、上河内から谿谷に沿って東北上すると、取見廟岡の裏に出

れる建立寺口、正応寺口、高野原道、長谷の谷口、池平口があり、豊満方面からも登り

口は幾つも有る。

 山の高さは五五〇m位、この山だけは際だって鉾のごとく高聳している。

 この山は畏くも神武天天皇、大八州を平定し給い橿原に都を定め、その功を専ら、天祖

神紙の霊地にして、且つ御自らの懐かしい発祥地であるこの小野榛の鳥見山の霊畤を設

け給うたと拝察し奉る。

 小野榛は、日本書紀に[上小野榛 と下小野榛にして鳥見山の地号なり]と有り、今の

高野原が小野榛に当たる。

 この山の中腹に、祭壇か城跡とみるべき広大な平地が幾度にも段をなし、偉観を呈して

いる。
 絶頂の石碑がたっていると言うが、今はどうなっているのか知る由もない。

 鳥見山について以上のように認めてある。

 鳥見山に沿って流れる高千穂峰の語源となった千穂川に鳥見山と対峙する金御岳がある。

中郷村史は金御岳を次のように紹介している。

 [中郷村梅北に聳える高峰で、古事記に天の金山とあるのはこの山である。

この山脈は西南に一里の長さが有り、天が峰を以って終わる。鳥見山の山系と安久川を境に

して対峙している。]

 このように書かれているが、安久川と千穂川はやがて宮崎の大河大淀川に名を変え、千穂

川は安久川の上流、大淀川の源流と思われる。

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 安久川と金御岳は、記紀に纏わる面白い伝説が有るが、ここでは割愛する。

 金御岳の探訪を記してみよう。

 四季の眺望は絶景である。

 高千穂峰を正面に都城盆地の全てを瞰視して、南は曾於を隔てて有明湾を展望できる。

 近年、金御岳四二一mを利用して、山頂に幅広い滑り台の様なものを設け、滑空するハン

ググライダーの基地と言った方が、古事記日本書紀よりはるかに有名になって来た。

 その理由は、金御岳と鳥見山周辺の千穂の谷間から巻起る上昇気流に恵まれた、古来

からの大自然の好条件を利用して、ハンググライダーを飛び立たせることが出来るからである。

 他面、上昇気流を利用して、飛来する野鳥の大群は、太古の昔からこの地を休息地として

立ち寄り、やがて飛び去って行く好都合の場所を見逃してはいなかった。

 その中に、春秋立ち寄る[差し羽]という渡り鳥がいる。

 差し羽金御岳と鳥見山の山間周辺に飛来して羽を休め飛び去って行くが、この鳥は誠に神

秘の鳥と言っても過言では無い。

 私は差し羽を指して、高千穂峰の天孫降臨は差し羽だと云いたいくらいである。

 山間に発生した上昇気流は、高さ一万mに及び、差し羽も同様一万m位上昇する。

 差し羽が天空に消え行く姿は特徴が有る。

 天に聳えた直径十数mの透明な円筒のぐるりを雄大に、何かはしゃぎながら、螺旋階段

を昇るようにぐるぐる回りながら一万mに消えていく。

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 上昇する差羽のグループの単位は様々だが、私が双眼鏡で確認した限り、始めは

五羽とか十羽である。

 しかし、差し羽は直ぐ他のグループと合流して、二十羽とか、三十羽の一群を構成する。

 群れはあちこちに発生し、鷹柱となって消えて行く。

 この山裾に寺柱と言う地名が有る。

 又神社という神社もあったが、今は遷宮して都城市内の町の中に鎮座している。

 神柱神社は宮崎県内では人気者で、都城付近の人は子供から大人まで知らない人は

誰もいない。

 鷹柱を両柱が挟んで何か意味ありげで有る。

 差し羽の五月の渡りは、鳥見山と金御岳の山間から始まって、黒潮の流れる上空を、

奈良、和歌山方面を目指して滑空し、一部は伊良湖岬に集結しているのを確認した人

が多数いる。

 日本野鳥の会宮崎市内在住の鈴木素直さんは、これからこの鳥の生態を研究すると

云われ、青森県の方で差し羽を発見したという報告を受けたと、話されていた。

 又このようなことも話された。

 差し羽は長野県の日本アルプスの山中で夏の間棲息し、秋の十月産卵から成長した

若鳥を引き連れて、都城の鳥見山周辺に集結し、上昇気流に乗り南方方面に帰って行く。

 差し羽は羽を広げると百二十cmから百五十cmの大鳥である。

 背面は茶褐色だが、胸や腹部は尾を含めて純白である。

 顔は精悍で下から見ると、場合によって勇敢な白鳥に見えないことも無い。

 四月頃から徐々に南方方面からやって来て、五月初旬にはそのピークを迎える。

 数日体力を癒し、山間に発生する特殊な気流に乗って、黒潮ラインを一気に奈良県御所市

の国見山、日本武村白鳥陵の方向に向かって進み、飛鳥、桜井の鳥見山、榛原の鳥見山を

経て日本アルプスの山中に消えたとしたら、余りに話が出来過ぎる。

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 しかし、差し羽の餌は蛙、蛇の類いで、魚介類は好まず、しかも一万m上昇すると直滑空で

三〇〇KM、都城から黒潮で四国沿岸を渡り足摺をを越え奈良山中に至ると六百数十KM、

丁度日本アルプス迄三度目の休息である。

 この発想はまんざらでも無い。

 日本野鳥の会の成果が待ちどうしい。

 奈良の榛原、桜井の鳥見山と御所の国見山の天空の直線は、飛鳥時代を反映する飛鳥

村も存在する。

 人は偶然と云うかもしれないが、差し羽と飛鳥時代の関係には悠久のロマンが有る。

 時代は景行天皇と推古天皇と時代の差があるが、差し羽の胸の白鳥、まさに日本武尊

の再来である。

 私の友人で作家、宮崎市内在住の三又たかし氏は[黒潮ロマン日向灘沿岸を行く]の

著述の中で、黒潮のルートは赤道ふきんの高気圧から発生して生まれ、フィリピン、台

湾沖縄列島を経て、奄美近海では日本海に流れ込む支流が出来る。

 本流はやがて日向灘、四国足摺岬、和歌山沿岸部、更に愛知県の伊良湖岬えと至る。

 このルートは差し羽の渡るルートとほぼ同じであると、書いている。

 私は翌日も差し羽の群れを見に、金緒岳に登った。

 この日は、人の出の混雑は昨日より落ち着いていた。

 鷹柱は昨日と同様、一群又一群、その土地の気象が上空の気流に溶けながら出す上昇

気流に縋り付いて、一万Mの対流圏に群れ上がる。

 やがて流される用に見えなくなる頃、高速のハンググライダーに変化して、奈良、和歌山

の森深く、着陸するに違い無い。

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 突然、梢に見事な差し羽が姿を止めた。

 精悍な顔付きで、大群集に脅える様子も無く、白い胸元をこちらに向けて、颯爽とご挨拶

の愛嬌を振り撒く。

 観衆の双眼鏡の間にため息がもれる。

 その時鷹柱が一つ、一つ、又、一つ、彼方此方に一つと増えて、周囲が透明な円柱を回

りながらゆっくり、ゆっくり揺れるように上昇する。

 見事、見事にざわめきが起こる。

 昔、岐阜県の鳳来寺だったと思う。

 山寺に仏教僧を聞きに行った事が有る。

 夜中、今か今かと鳴き声を待ったことを思い出す。

 とにかく差し羽の上昇は、大自然、大宇宙に溶け込んだ天空のドラマである。

 ほんの僅かなショータイムだが、余り皆に知られていないのが残念だ。

 見ごろは五月の連休か十月十日前後である。

 差し羽の舞台は一度、五月を見ると十月の渡りが待ちどおしい。

 古代人は差し羽を捕らえて羽を剥ぎ、矢の一端から羽を取り付け、矢の推力を増す原

動力の燃料とした。

 倭国女王卑弥呼は魏国朝廷に木付短弓矢[もくたんふんきゅう]を献上した。

 都城は今も昔も弓矢の生産高は、技術も含め全国一を誇っている。

 一九九九年四月、世界弓道大会はs、都城で開催された。

 中国周代に始まった学問、六芸の一つ射の学問が有る。

 言うまでもなく、弓術のことである。

 悠久三千年、弓道はスポーツとして生きている。

 

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