邪馬壱国 奈良県五山の国見山岳<6>
   都城の邪馬壹國
                           著者  国見海斗 [東口 雅博] 

<51ページ> 第二部
[奈良県五山の国見山岳]

 南方方面に子連れで飛び去る時期は十月頃である。

 其のとき再び南九州、都城、鳥見山に立ち寄り群れを為して飛び去って行く。

 来るも行くも古代の果てから今に至まで渡り鳥の数の最大は、都城鳥見山で有る。

 過去の現実を本能的に認知した女王卑弥呼の唯一の生き証人である。

 矢竹で矢柄を作り矢頭の一端に差し羽の羽を矧ぎ、矢に取り付け推力の原動力とする。

 翳[さしば]は、天皇が即位、朝賀などの大儀に高御座[たかみくら]に出御[しゅつぎょ]

、群臣の拝賀をうけるとき、壇の下の女嬬[にょじゅ]が左右から差し翳して体を覆う。

 一丈二尺の長柄の頭部に、差し羽の羽で軍配団扇[うちわ]の形を作り、此れを称して翳

[さしば]と言う。

 高千穂峰が結ぶ東南、直線の鳥見山の山裾は、古代の遺跡を秘め未だ混沌として興味

有る人心を掴み離さない。

 もしここに古代王宮が存した霊地であれば、弓矢や差し羽は一挙に解決する。

 何故なら卑弥呼はここで共に起居し、差し羽の生態を熟知していたからである。

 三国志魏志倭人伝の著者陳寿の性格は、普書陳寿傳のままだとすると私にとって好都

合である。

 会稽東治は揚子江河口の崇明島を中心として、南岸は呉の国、北岸は魏の国と位置づ

けると魏の立場にあって陳寿が示した会稽東治は、揚子江北岸チードン付近依り以北で

なければならない。

 広儀に見て揚子江の正に東、高千穂峰が有る。

 狭義にはチードン北緯三十一、八度の真東に高千穂の峰が存在しているということである。

 五万分の一地図の著者、井上英二氏は地図の歴史に就いて次のように書かれている。

 古代人の地図の歴史は古く紀元前数千年に遡ると言う。


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 人間は本来、如何に未開人でも地図を作り理解する能力を有する。

 多くの探検家は、未開人から土地を線に描き道を開いた。

 エスキモーが、アザラシの革に木片を張り付け地図を作り、南洋の島民が木片を組み合

わせ、或いはヤシの繊維と貝類を組み合わせ航海用図は、原始時代の地図の姿を彷彿

とさせる。

 発見された最古の地図は、バビロニア人のメソポタミア地方の地図で、小さい粘土板に

チグリス、ユーフラテス河バビロンの町、周囲の山等が彫り込まれたものである。

 この地方は古代オリエットのシュメール文化が栄えたところで、ギリシャ、エジプト、中国と

共に世界四大文化発祥の一つで、同時代、紀元前二、三千年頃、エジプト、中国にも立派

な地図が有った。
 現存するのはエジプトの古い金山の図、パピルスに描かれたラムセス二世時代の地籍図

が最も古い。

 中国には地図が有った記録がある。

 測量技術は、天文学、数学共に古代エジプトに起こり、紀元前二八〇〇年頃、巨大ピラミ

ッドを子午線に合わせ築造した。

 地図の基礎工学は古代ギリシャに始まる。

 アリストテレス[紀元前三八四−三二二]は地球は球状であることを唱え、エラトステネス

[紀元前二七五−一九四か]は現代と一割程度の差で其の大きさを測量した。

 経緯、緯度に依る地図の表示方法もギリシャに始まった。

 エラトステネスはこの方法で地図を作っている。

 ヒパルコス[紀元前一九〇年−一二五年か]は天文観測によって経緯線を引くべきで、例

えば一年中の最長昼間時間が等しい地点に、同一緯線を引くべきであると言う考え方を持っ

ていた。

プトレマイオス[AC二世紀]は当時の文書や旅行者の記録を基に各地の位置を決めヒパルコ

スの考えを発展させ、収斂する子午線と円弧になった緯線を持つ単円錐投影に似た図法の世

界図を作った。

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 多くの誤りを見たが一三世紀まで権威有るものとして世界地図の基礎に成った。

 ローマ時代の地図は領土拡張と軍事目的とした道路図的なものが多い。

 この道路的な地図こそ卑弥呼の鬼道に通じる物を感じる。

 三国志の作者陳寿又方位に関する知識は、ローマ時代の地図の制作に負けない確かな

もので、驚異さえ覚える次第である。

 このように会稽東治と高千穂峰の直線は、それほど困難を伴わず星、月、太陽の大宇宙

の贈り物を活用したことは勿論、更に加えて卑弥呼の測量技術に至っては、銅鏡をプリズ

ムと疑しトランシットに利用、合図に銅鏡を使用した。
 会稽東治と帯方郡である京城の首都を直線で結び、京城から倭国至る東南の直線を高千

穂峰の頂上に至らしめ、会稽東治と高千穂峰を結ぶ三角形は、奈良の大和三山が構成する

二等辺三角形、即ち天香具山と耳成山、天香具山と畝傍山、耳成山と畝傍山が構成する二

等辺三角形と全く相似形を作り出す。
 特に高千穂峰と帯方郡京城が造る東南の直線と、天香具山と耳成山が描く東南の直線は

全く平行で、地元奈良では天香具山を高天が原と称し、又高千穂峰は、天孫降臨の山として

著名で有る。
 高千穂峰の山の形は都城の鳥見山と結ぶ東南十六KM間の直線の下に立ち高千穂峰を見

上げるとき、古代中国の振り仮名、現実の被写体、象形文字の[倭人は山島によって国邑を為

す]、その[山]の文字が眼前に迫る。

 高千穂峰を東南の上座に設え、後は円卓とも言える都城盆地に 無い数々の古代を着座させ

ると、目には見えない威厳ある神秘の風格が、高千穂峰に相対峠して一陣の爽気が鳥見山に

流れる。
正しく他の遺跡、遺物が畏敬の念で頭をたれ一様に押し黙る瞬間である。

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 胡座した賢兄なる山、霊峰高千穂は、悠久二千年に幾度と起ち幾度と去る妹、鳥見山に

優しく語る。

 心の安らぎを求めて人は旅立ち、忘れていた遠い昔が蘇り、母なるおまえの胸に抱かれよ

うと挙って舞い来るに違いない。

 その日の近い足音が私の脳裏を駆け巡り、瞬きの始まりが終わる微かな一つに大きな太

陽が金色にお前を包む。

 荘園は平安時代に始まり、地方の豪族が貴族や社寺に寄進して私的な領有地と変化した。

 次第に立荘が盛んとなり全国的に拡大発展した。

 荘園に国家の権力を介入させない権利を不輸不入と云うが、買い得や開墾によって取得し

た荘園は、この時代の初期の時代、権利を有するに至っていなかった。

 八百年代も終わりに近づき不輪租田に準じて不輪租の権利を持ち始め、令制に基づき朝廷

から諸国に赴任した地方官、即ち守[かみ]、介[すけ]、掾[じょ]、目[さかん]の四等官と其

の下の史生[ししょう]が勤務する国分の国衙[こくが]の立ち入りを禁止する権利を獲得するも

のが増加した。

 十一西紀になると国家権力の介入を一切受け入れない、拝斥する荘園が続出し一般化した。

 平安時代の地方豪族にk依る盛んな寄進立荘も、鎌倉幕府の守護地頭制度が始まると次第

に武家に侵害され、南北朝の戦い以後急速に衰退し始め豊臣秀吉の時代、終局を向かえた。

 都城の大荘園も漏れ無くこのネットワークの主人公として大役を果たした。

 大化改新は日向に五群二六郷を設け、都城の中郷は其の一つであり、始め、南の郷に属し

たと言う。

 大荘園の始まりは、今の中郷、鳥見山の山裾から始まった。

 しかし、大荘園の始まる以前、既に鳥見山の山裾には其の土壌となった基礎が確立されていた。

 中国の周代、周の武王は紀元前一千百二十二念、殷の紂王[ちゅうおう]を滅ぼし鎬京[

こうけい]に都した。

 武王は諸侯の領地の広さにより公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵、位を順位に与え、農家に

用地を分配し、田制を設けた。

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 用地を囲の文字の形に区画し囲いの中央の一区画を納税の義務と為し、後の八区画は

農家個人の所得とする。

 この中国の田制は、今から三千百二十二年前の天子と農民の直接対話に繋がる貴重な

一場面がある。

 日本の古い制度は国造[くにのみやっこ]、県主[あがたぬし]稲置[いなぎ]をおいた。

 此の制度が倭国繁栄の基礎となった。

 A、C六百六十年,神武天皇が東征の折り、大和の国生駒郡鳥見[とみ]地方に割拠した

土豪の登美の茜長、長髄彦[ながすねひこ]に河内の孔舎衛坂[くさかざか]で行く手を阻

まれ、兄五瀬命は命を奪われた。
 天皇は道を変えられ紀伊に上陸し、道臣命[みちおみのみこと]等を先導させ大和に入り、

再び長髄彦を攻められた。
長髄彦は天神の子饒速日命[にぎはやひのみこと]に妹を納め仕えたが、孔舎衛坂で天皇

に立ち向かったため、饒速日命に諭されたが、更に従う気配が無かったので誅殺された。

 饒速日命は天皇に降り、次いで近傍の諸々の賊も平らげると大和は全く平定した。

神武天皇が長髄彦を討ち滅ぼすとき、金色の鵄[とび]が飛んできて天皇の弓弭[ゆはず]

に止まった。

 其の光は、稲妻のごとく、賊軍は目が眩み敗れ去った。

 此れにおいて天皇は、畝傍山の東南になる橿原に宮殿を営み、即位の礼を挙げ、大国主

命の後なる五十鈴媛命を皇后に立てられた。

 神武天皇のご即位式は辛酉の年の正月元旦であり、太陽暦の二月十一日に当たる。

 辛は十干の第八で、かのと、酉は十二支の第十番目、西の方向を言う。

 中央における天皇は、天種子命[あめのたねこのみこと、天児屋根命の後]、天富命[太玉

命の後]をして祭祀を行い政治を補佐し、道臣命[みちおみのみこと]、可美真手命[うましで

のみこと、]饒速日命の子、物部氏の祖先]をして宮殿を守らせた。

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 地方には国造[くにのみやっこ]、県主[あがたぬし]を置いて治めさせた。

 国造とは一つの国の政治を掌握した長官のことであるが、広辞苑には古代の世襲の地

方官とある。

 およぞ一郡を領有し、大化の改新以後はほとんど郡司となった。

 大化の改新後も一国一人ずつ残された国造は、祭祀し関与し行政には無関係の世襲

の職とされた。
 又県主とは諸国の御料田を掌握した長官のことであるが、広辞苑は大和朝廷時代の県の

支配者とあり、後に姓[かばね]の一つと成った。

 御料田は皇室の田圃であり、姓は古代の豪族が政治的社会的地位を表すために世襲した

称号で臣[おみ]、連[むらじ]、造[みやっこ]、君[きみ]、直[あたい]、史[ふびと]、県主[

あがたぬし]、村主[すぐり]など数十種類がある。

 始めは私的な尊称であったが、大和朝廷の支配が強化されると共に朝廷が利用するように

なり、臣、連が最高の姓となった。

 大化の改新後六八四年、天武天皇は皇室を中心に八色[やくさ]の姓を定めたが、次第に

姓を世襲する氏よりも氏が分裂した結果である家で、政治的地位が別れることになって、姓

は自然消滅した。

 大和朝廷は我が国最初の統一政権として誕生し日本史の時代区分では大和を中心とする

幾内地方に朝廷の有った時代を指し、律令時代の前、考古学上の古墳時代とほぼ一致する。

 幾内地方の諸豪族が連合して皇室から出る君主を大王、後に天皇として擁立し、四五世紀

迄に東北地方以遠を除く日本全土の大半を統一した。

 六世紀には世襲的王政が確立し、諸豪族は臣[おみ]、連[むらじ]などの姓[かばね]によ

って階層的に順序ずけられて、氏姓制度が成立した。

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 飛鳥時代から氏姓より個人の才能、努力を重んじる宮司制度が発達して、七世紀半ばの

大化の改新後、朝廷は大和から難波、近江へと移打、律令制の朝廷に進んだ。

  それでは都城の古代鳥見山に話を遷そう。

 六百四十五年大化改新により日向の国は五郡二十六郷となったが、諸県郡中郷は郡、

郷制度の中で古代鳥見山の存する都城として、面目如実、著名な一画を占有した。

 同時期には官道が開かれ、日向の十六の延喜式駅のうち、都城は三股の水股、

島津駅二つを所有することが認められた。

 律令制が衰退するに従って日向全般にも荘園が増加し、全国の中でも近衛家領の

島津荘園は日本一を誇るに至った。

 現在は都城市安久町と町名を改めたが、昭和四十四年迄は北諸県郡中郷村安久町

と称した。

 安久町に正応寺と言う部落が有る。              

 部落の道路に沿って山道を登って行くと、杉の木立の合間から谷川の渓流に並び、急

な三角をした杉山が目に入る。

 この山こそ都城の鳥見山五百五十である。

 今は昔を忍ぶ面影も無い雰囲気を醸し出している。                  

 鳥見山の山裾から広がる大寺院、大伽藍は、六条天皇、仁安元年一一六六、島津荘

園の本家、摂政関白、近衛氏の命を仰いで島津荘園の宰相を努める梅北兼高が創建し

たと言う。

 閉山は兼高の三男禅慶和尚と言い、伊賀坊とも称えた。

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 島津荘園領主関白藤原家で忠実、忠通、基実と不幸がつづき当家の安泰を祈願して

建立したと伝わる。

 当寺院の本専は延暦寺開山大上人、天台宗開祖伝教大師最澄の作、薬師如来で参

体のうちの壱体である。

 三国名勝図絵抄より写し取って見よう。

 医王山知足院正応寺は領主の館より辰巳一里七十八丁安久村に有り。

 本府大乗院の末にして真言宗なり。本尊薬師如来、この薬師像は傳教大師入唐の時、

赤梅檀の霊木を彼の土に得て一花、一香三体の作にして大師彫刻三体中の一なり。

三体とは一は比叡山延暦寺の本尊、一は越前図栄山寺の本尊、一は当寺の本尊此れなり。

 始め天台宗として其の開山を禅慶和尚と言う。

 当時は往古、近衛藤原氏、島津御荘を領せし時、其の荘内に創建せり。

 この時御荘の宰は伴兼高とす。

 兼高は男五人あり、長子は昌兼と言う。父の職を継ぐ。

 次ぎは兼盛、後なし。 

 次ぎは伊賀坊、次ぎは竪者[じゅしゃ」、次ぎは兼盛と言う。

 此れより先兼高は、伊賀坊,竪者坊を江州天台宗三井寺に住まいて仏教を学ばす。

 三井寺は滋賀県大津市の西北,長等山の麓に有り、円城寺とも言う。
 天台宗寺門派の総本山で、弘文天皇[第三九代、名は大友、天智天皇の第一皇子、六

七一年即位、皇居は近江国滋賀の大津の宮、在位八ヶ月、壬申の乱で崩、六四八−六七

二]の建立で僧坊八百五十を有した。

 大僧正覚円は、三井寺の長吏たり。覚円は承徳二年遷化、御荘領家、宇治関白、近術

膝原頼通の第六子なり。

その後、僧覚忠天台座主より一三井の長吏となる。

 又、領家師実頼通の弟なり。覚忠は自六十二年遷化。        

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 又、領家近衛藤原家の人出でて僧となり三井におる者四人。曰く、僧智、曰く、永実、

曰く、仁登、曰く、覚実この四人皆領家師実の弟なり。

兼高は伊賀坊等をして三井に学ばしむ。蓋しこの縁を以てなり。

 然るに応保二年より仁安元年に至り、五年の間、御荘領家、藤原師実の子、忠実、忠通、

孫の基実に至り、三世故に仁安元年三井寺座主二品親王[覚忠が師弟」、天台の僧禅慶

和尚等をして傳教大師手刻の薬師像を奉じ釆て、寺を島津荘園内に創建し、十二坊を連ね、

日吉山王社を鎮守とす。

 島津荘園は宇治関白頼通に始まると雖も、財部深川[末吉に深川という地有り、俗に深川

村と言う」等の荘園は忠通のとき加え領す。故に忠通は荘園に功有り。因って其の法謚を取

りて知足院と号す。

 正応年中、島津荘官言状に、所謂、当御荘に寺社絵図及び造営彼寺社云々見えたるに、

其の寺社とあるはこの正応寺及び下の条の西生寺を指し、其の社とあるは神柱宮と宇佐八

幡とを指せるなるべし。

 伽藍既に廃して所残の者、唯薬師堂と山王途のみ−以下略

 十二坊名 当時の十二坊の名は、一、宝幢坊、二、宝泉坊、三、善福坊、四、善蔵坊、五、

宝地坊、六、大智坊七、井上坊、八、常善坊、九、宝釈坊、十、座禅坊、十一、大輪坊、十二、

竹中坊、と云う。

 今、廃して寺跡のみ残す。

 西生寺は梅北の西生寺部落に遺跡が残る。

 一千百六十七年、六条天皇、仁安一年正応寺開山の後、仁安二年、伴朝臣梅北兼高

が創建した。

 寺号は霧島山大曼陀羅院西生寺、当時の住持は尋誉上人、宗旨は最初天台円宗流を

汲み、後世は真言密教の教風を仰いだ。

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 本尊はインドの月盖長者[げっこうちょうじゃ]の鋳たものと伝わる阿弥陀如来、一尺

五寸の金の立像で有る。

 当時の創建については寺伝、旧記により種々述べられている。

 当寺は小松内線平重盛の開期と有る。平重盛は一千百三八年−一千百七十九年の人

で西生寺の開山一千百六十七年に存命であったことが判る。

 平重盛は平清盛の長子で小松殿、小松内府、灯籠大臣と云う。平安末期の武将。

性勤直、温厚、武勇人に勝れ、忠孝の心が深い。保元、平治の乱に功有り。左近衛

大将、内大臣を兼務。

 六百九十三年、大宝二年、文武天皇の時、日向から薩摩が分立した。

 七百七年、和銅元年、元明天皇の時、郡、郷、保、戸、個人、の郷村制度が郡、郷、里

、保,戸、個人と改められた。

 七百十二年、和銅六年、元明天皇の時、日向から大隅が分立した。

 八百年、延暦二十年、桓武天皇の時、太宰府から隼人を進めるをやめ、以後朝廷の大

儀式には京畿に移住する隼人が、風俗歌舞を奏する。

 日向の国境が薩摩、大隅と別れて分立したころ藤原一族は、外国の交通と共にアジア

文化を貪り栄耀栄華の限りを尽くした。

 日向の郡は五つに別れ、諸県郡の内に都城中郷は組み込まれた。

 国府は児湯郡に置かれた。

 万寿年間、中郷にやって釆たのが太宰府の役人、太宰府大監、平季基[たいらのすえもと]

である。

 倭国の古代土地制度は国造[くにのみやっこ」、県主[あがたぬし」が土地や人々を私有して

、朝廷は若干の御県、御宅、屯倉を領有した。

 しかし大化の改新は中大兄皇子により[天に二日無く、国に二王無し。天下の土地、人民は

天皇一人所有し給う

<61ページ> 
 ベきなり]と称えられ、自ら皇子が領する土地と人々を天皇に奉献された。

 その後奈良時代全盛のころ、宅地、園に限り私有が認められた。
 此れを機に諸国の豪族は、次第にほしいままに公地、官地を開拓へいごうし、百姓を我

が物にして藤原氏或いは関係する寺院に寄付、荘園とし、己が其の主人となり荘園勢力

を旗印に郡司を圧したが、群司はなるにまかせた。

 御一条天皇の万寿年間、万寿三年、一千二十四年太宰大監、平季基、弟判官良宗は共

に都城、中郷を訪れ、誰が残したか知れない広大な豊満の神田跡を見て驚き、古来から取

見山の麓に居住する田部に話をつけて中郷益貫に土着したのである。

 中郷村史に次のようなことが書き示されている。

 太古の制度は酋長は彦、公、主、君等という。

 朝廷が定めた制度とは違うが、朝廷も皇太子を王公として封じている。

 当時の諸県の君はその名残である。

 一面、国造制度は神武天皇より起こっている。

 国造、県主、稲置の職が有り、領内の土地や人々を自由に処分できたが、何故か領内に

は朝廷の、所有地、神社領貴族私有地も有った。

 後世の国司、郡司、里長等と余り差異は無い。

 朝廷直轄の土地の中で最も有名なものが屯倉である。

 起源は明白でないが、既に垂仁天皇の項に見える。

 垂仁天皇、垂仁記二十七条、屯倉此言弥夜気[とんそう、これ、みやけ、という]

 屯倉は屯家、官家、三宅、三家、御宅等の字を当てて記され、皆[みやけ]と呼ぶ。


<62ページ> 
  屯田、三田は屯倉を含有した呼称で有る。

 古事記、日本書紀に田部の文字が度々出ているが、この田部は、屯田即ち皇室の領地

である屯田、神田を耕作する部民のことである。

 中郷村に田部部落が有る。

 古く由緒不明な御年神社も有る。

 御はオオン[御]の約で有る。

 御年は穀物の実り、農作を言い、祝詞、祈年祭を指す。

 御年神と御歳神は同義で有る。

 素戔鳴尊[すさのうのみこと]の子、大年神の子、母は香用比売、穀物の守護神である。

 ここで[御オオン]の文字の熟語を幾つか拾いだし言葉の共通を見いだして見る。

 御戸代、御刀代[神に供する稲を作る田、神の御料田、神田、神功紀に神田・・みとしろ

・・を定め佃る]

 御料[天皇の所有し又使用するもの]

 御料車[宮廷用の客車、天皇、皇后、皇族及び外国貴賓の乗用車]

 御料所[皇室の所有地]

 御料地[皇室所有の土地]

 御陵[天皇、皇后、皇太后、の墓所]

 大郷[おおみ、神や天皇に関する物事を尊んで言うに用いる]

 大郷餐[おおみあえ、天皇の食事]

 大御燈[おおみあかし、神前、仏前の燈明]

 大郷歌「天皇の歌、御製」

<63ページ> 
 大御祖[おおみおや、天皇の祖先]

 大御酒[おおみき、神、天皇に捧げる酒]

 大御位[天皇の位、あまつひつぎ、天位]

 大御食[おおみけ、天皇の食物]

 大御心[天皇の心]

 大御言[おおみこと、天皇の言葉、みことのり]

 大御衣[天皇の衣服おおんぞ]

 大御田[おおみた、神領の田、神田]

 大御宝[天皇が宝とされるもの]

 大御手[天皇の手]

 大御床[おおみと、天皇の寝所]

 大御執[おおみとらし、天皇の弓、おおんだらし]

 大御葬の歌[おおみはふりのうた、雅楽寮大歌の一、天皇の大葬に奏した上代歌謡

、現今も大葬に哀歌に奏す]

 大御船[おおみふね、天皇又は皇后の乗る船]

 大御馬[おおみま、天皇が乗る馬]

 大御身[おおみみ、天皇の身体」

 大御恵[おおみめぐみ、天皇の恵み]

 大御許[おおみもと、天皇のおそば、皇居、御所、おもと]

 大御物[おおみもの、天皇、皇族の方の食物、おもの]


<64ページ> 
 大宮、大御家[皇居、神宮の尊敬語、太皇太后又は皇太后の敬称、母宮の別称、

 大宮御所[大宮の住む御殿]

 大御息所[おおみやすんどころ、先帝の御息所、天皇の母]

 大御行[おおみゆき、行幸]

 大御世[おおみよ、天皇の治世]

 以上のように[御]の文字は天子に関係有る事物に添えて敬意を表す語としては、

これに勝る物は無い。

 すると御年神社は中郷村史に有る[ここには古くて由緒の不明な神社もある]と言

う理論は田部、屯田、神田等に纏わり付いて皇室と最も深い関係を明らかに表す、

どこにも引けを取らない昔なら官幣大社級の称号を与えれても当然なご神体を、皆

の者の眼前に鳥見山と共に立たれたと言うことになる。

 私は正応寺、西生寺、神柱、平季基、伴、梅北、島津荘園等中古時代の藤原時代

と結び付いた国宝に勝るとも劣らない数々の功績が、都より遥かに離れた西の南にあ

り、主の見事な平安の雅を南国に披露した過程に胸打たれるものが有る。

 しかしそれは鳥見山の田部、豊満があって八千五百六拾四町に及ぶ我が国に比類

の無い大荘園が開かれた。

 鳥見山の田部、豊満は軈て奈良に咲く主の野望を見送りながら、消えた歴史の陰にう

かぶ平季基の手足に光りを見たからである。
                                           第二部終わり
 

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