邪馬壹國 8大和三山と国見山 帯方郡設置と国見山 宮崎県串間の穀壁
           都城の邪馬壹國

                            著者  国見海斗 [東口 雅博] 


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  奈良県橿原市内に大和三山という古来に銘々された山が有り、三山は奈良

古代を代表する名山である。

 特に天香具山が三山の一つということは、此の一山で富士や高千穂と同じ位、

大和三山の名声を高めている。

 歴史上、文学上、文化日本を代表する名山であり、これに異論を挟む者は、い

ないと思う。

 広辞苑には「此の山に高天が原が有った」と書いてある。

 差し詰め、魏志倭人伝の帯方郡、会稽東治、或いは邪馬壱国で構成する三角

形の一角を思わせる文字である。

 三山の二つ目に畝傍山[うねびやま]が有る。

 此の山も天香具山に負けぬパワーを発する名山で、山麓に橿原神宮が鎮座し、

東北には神武天皇の御陵を持つ。

 高さこそ百十九Mだが、戦前なら文句無く日本を代表する山である。

 奈良を訪れると、必ず寄りたくなる魅力ある場所だが、何故か山上に、神功皇

后を御祀りする畝傍社[うねびし]が有る。

 残り一つは耳成山[みみなしやま]で、奈良県桜井の西北、八木の東北、、広

い盆地と住宅に一つポツンと立ち残っ、山とは言えぬ山である。

海抜百四十M、見た目は数十M位の小高い丘を成し、、一の三角形を構成する

ために築造された、誰か名のある人の占墳の可能性を秘めている。

以上大和三山、それぞれ個性を発揮した古代の山々である。


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  では三山が見せる秘密の部分を探り、どの様なベールを秘めているのか暴い

て見ることにする。

 まず、天香具山から畝傍山、耳成山の各頂点を結び三角形を措いて見ると、

耳成山から畝傍山、天香具山から畝傍山、二本の直線の距離は等しく三千二百

Mで、三つの山の三角形は二等辺三角形を構成して不思議さを醸し出す。

 不思議で成らないから何か手掛かりを得ようと思い、飛鳥資料館、正式には奈

良国立文化財研究所飛鳥資料館と云う、立派な考古資料展示館の事務所を訪

問した。

 多分何の成果も得られぬと分かっていたが、過去にでも其のような話を聞いた

ことが有るか、どうかだけでも知れば一歩前進と思い、質問を試みた。

 大和三山は、二等辺三角形に配置されてるのをご存じですか。、、、、、さああ

、後は無言。耳成山に、地層が有ると思いますか。、、、、、、返事なし。

 小石と風化した土が混合して、下部に圧縮された様子が無く、下部から上部ま



小石と土の混合が風化した灰色になっている、そのような露頭部分を見たことがあ

りますか。、、、、、、返事なし。

 序でに私にとって最後の重要な質問を試みた。

 天香具山と畝傍山を結んだ直線を、左右西と東に引き伸ばして行くと、どんな山

の環点を通過し或いは遺跡、建造物を越えて行くか、ご存じですか。、、、、、当

然、無言。

 その道の専門官は、不機妖そうに私の顔を見つめていた。

 やはり土建業の後追い工事で、何々教育委員会の連絡待ちやさんかとおもう

と、さほど気にもならず、それはそれなりに評価して、お邪魔した私が無知だと悟

り、額に汗して旅の耽と赤面しながら、早々、退散した。

 やはり学者は、方位には興味が無いと、つくずく思い知らされた。

 今後一切学者と言われる方は古代史の方位については、どの様な場合でも絶

対に認められないことを願う。


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  大和三山の解釈は、私なりに次のようなことを考えた。

 大和三山は九州王朝が東征を完遂し、民心の安定を図る止めにとった政策上

の行為と想起する。

 先ず、大和三山を構築するに当たり、種人の民心の安定と中国の占領地、帯

方郡の安寧を願った。

 それは、九州王朝の偉大なる権力を伝えることから始まった。

 更に、九州王朝の威厳を民心にしらしむる為に、箸墓前方後円墳等を築造し、

親魏倭王の称号と女王卑弥呼を象徴化したのである。

 特に大和三山は、天香具山を高千穂峰と擬し、耳成山は帯方郡、畝傍山を

会稽東治と疑せたのである。

 天香具山と耳成山を結ふ直線は、高千穂峰と楽浪郡である平壌、帯方郡であ

るソウルの三点を結ぶ直線と、全く平行している。

 耳成山と畝傍山、天香具山と畝傍山これらは全く等距離で、各頂点の距離は

約三千二百Mの二等辺三角形を構成している。[三千二百Mは地図上の寸法]

此の二等辺三角形は、高千穂の峰、帯方郡、会稽東冶の三点が描き出す二等

辺三角形と類似している。

 天香具山や高千穂峰は、天子や太守に対する礼拝の神聖地で有り、後世の

高天が原と言われる地帯である。

 魏志倭人伝の一文、[邪馬壱国、その道里を計ると正に会稽東治の東にある]

は、約北緯三二度の東方に向かって会

稽東治から高千穂の峰が相対峠して、二つは結ばれる。

 畝傍山と天香具山を結ふ直線を、右東方に直進させると、奈良県宇陀郡曽爾村

、国見山頂上に達し、左西方に直線を延長すると、大阪府富田林市佐備に存する

滝谷不動草本殿上空に至る。

 現代の立場に有って、畝傍山、天香具山、滝谷不動尊の直線の関係は、違和

感が無きにしもあらずだが、不動尊の霊地を想うとき、数千年の過去の歴史を秘

めた霊力を以て、現在に至っているやも知れず、不動尊の歴史のみここに当て

はめるだけでは物足りない。


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  又、問題の国見山が、登場していることは見逃す訳にいかず、古代の主役で

あったことはまず間違いがない。

 天香具山を起点とした直線を、国見山から幾つか紹介して見よう。

 奈良県桜井市の三輪山四六七を発した直線が、南西に向かって飛び立つと天

香具山の預上に達し、更に延長すると

御所市の国見山二二九の頂点で止まる。

 又、三輪山ほど日本書紀、古事記を賑わす山の神はいない。

 しかも、国見山から確認できる故事来歴を、これ程無視した山の神もこれ奇少

である。

 付近に古墳群、神社、古跡、旧跡は無数に有るが、他の直線はこれらと関係し

ようと、努力の跡が見受けられるのに、三輪山はそれらを避けて、王者の貫禄

を示しているのは、奈良一番の恐れ山である。

 三輪山は、奈良県桜井市三輪山が現住所で有る。

 大神神社[おおみわじんじゃ]は、三輪山に有る我が国最古の神社で、御神体

が三輪山そのもの、本殿が無い元宮幣大社である。

 祭神は、大物主大神、大己貴神[おおなむちのかみ]と少彦名神[すくなひこな

のみこと]を配祀する。

 三輪明神とも言い、三輪神社は大神神社の別称である。

 大神神社は古来依り三輪神道を開き、真言密教の教理、儀式、陰陽五行の理

に基ずき、日本書紀神代巻を解釈した両部神道である。

 鎌倉末期、大和の国三輪の鏡円道志を祖として、室町時代に発達した。

 大物主は大神神社の祭神だが、大国主の神の和魂[にぎたま]で、柔和、精熱

の徳を備えた神の霊、霊魂を言う。

 天香具山を通過する直線は、西方左の富田林市甘南備の龍泉寺と隣町、河内

長野の極楽寺から始まる。

 両寺院を東の天香具山に進む直線は、本薬師寺を通過して、天香具山に至る。


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  天香具山を出て東に向い、桜井市栗原の花山琴古墳の上をみて、宇陀郡曽

爾村と三重県境の国見山八八九に至る。

 此の直線の特徴は、天香具山中心の古刹の直線であり、勿論、社寺より古い

謂れが、其の土地に潜んでいる。

 石上神宮も三輪山同様、畝傍山と御所の国見山の三点が、確実に直線で結ば

れているだけで、他に付き添う日跡は何も見当たらない。

、石上神宮は奈良県天理市布留に鎮座、元宮幣大社、祭神は布都御魂大神、

石上の伝承は石上の姓名、石上寺、竹取物語、布留の枕詞等、数知れず残され

ていて、古代からのパワーの実績は計り知れないものが有る。

 日本史で中世とは、鎌倉、室町時代を言うが、今から七百年程昔、今の大阪府

南河内郡千早赤阪村の土豪、南北朝時代の武将、楠木正成と言う男がいた。

 幼名を多聞丸といい、一三三一年後醍醐天皇の勅を奉じて兵を挙げ、金剛山

赤坂に築城、寡兵を以て鎌倉幕府の大軍を破り建武の政権下、摂津、河内、泉

の守護となった。

 其の当時、築城された城跡が一連となって、直線上東南の方向に出現している。

 楠木正成を彷彿とさせる一場面である。

 金胎寺山二九七を発した直線は、赤坂城跡を抜けると新沢千塚古墳の上空を

通過、甘樫坐神社を越えて山田寺跡、更に延長すると国見山に至る。

 又、楠本城を出発した直線は、一言主神社を通過、国見山を経由して龍門岳九

〇四山頂に至る。

 又、千早城を出発した直線は御所市の国見山に至り、次に御破裂山六〇八、

西山岳七〇二と通過、国見山に泊まる。

 国見山講は、後漢の終わり、倭国と楽浪郡の方向や距離を測るため、其の目印

を設けたのが始まりであるが、いつの日かそれを祖として倭国の宗家が受け拙い

で、祖先の霊を祀る直線に変化した様に見える。

 此れが事実とすると、倭国の中の諸国の宗家も国の護持の為、其の国の規模

に応じて用いる様になった。

 宗家は国の重要な役割を担っていたが、次第に確立された仏教の伝来や各豪

族の出現によって、当時としては形の変わった現代の宗教の原点に吸収され、更

に原始国家も行き着く処まで発展して、天武令で消滅した。

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 楠公の築城は今から約七百年前千三百年頃で有る。

 天武令は六七九年およそ千三百年前で有る。

 楠公との差、約六百年、六百年は、国見山が眠っているはずで有る。

 六百年後、楠公の築城関係者は、倭国の祖先の方位、国見山を知って

いただろうか。

 しかし、図示した直線を見る限り知っていたとしか思わざるを得ない。

 これには何か隠された秘密が有りそうだ。

 楠本城と龍門岳の龍門は、楠公が選んで付けたような名前である。

 龍門とは広辞苑によると、次のように書かれている。

 中国、黄河中流の険しい所、山西、陝西南省の境にあって、山岳対峠

して門口を為す、魚鼈[ぎょべつ]の類いもここを登れば龍となる、といい、

今は登龍門と言う。

 楠木正成が本城築城のとき、難攻不落を祈願して、先祖の国見山を通

じ龍門岳を選んだに違いない。

 奈良盆地の国見山は、昔は別として現在は五山ある。

 九州の国見山は、九州全域で福岡に一山、他、大分、熊本、佐賀、長

崎、鹿児島、宮崎延べで二十四山ある 地図に示されていない国見山

岳も、数山あると思われるが今は調べる方法が無い。

 国東半島の国見町は、古来、国見山と呼ばれていた山が存在していた

可能性は十分あるが、今は無い。

 国見町役場を訪問して、教育長始め皆さんに国見町の謂れをいろいろ

聞かせて頂いた。
 
 役場の金庫に保管されていた豊後風土記を、わざわざ持ち出して頂、

其の一節に景行天皇が言われるには、[この土地は国を見るのに良い

所だ。]というようなことが書かれていたのを記憶して居る。


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  広辞苑他、どの辞書も似たり寄ったりである。

 国見山の山裾には、比較的国見町に該当する国見の地名が存在して

居るが、今は国見の地名だけをのこし忘れ去られている方が多い。

 古事記、日本書紀に載る国見も、国を見る位の意味で、何故か天武

天皇は他の意味に転じてしまった。

 本来国見山は、ある事跡を残したり、方位や目的地を確認するために、

事跡が二つ以上揃うと国見山を一つ、或いは二つ直線に並べて、直線

の方何を定める。

 これが国見山の役割である。

 邪馬壱国に話を移そう。

 西暦二百三年、公孫康によって帯方郡が設置された。

 それを遡ること三百十一年、前百八年、漢の武帝は、朝鮮北部に真番、

楽浪、臨屯、玄菟の四郡を置き、中国領土として占有した。

 漢の武帝が、朝鮮北部に四郡を設置したときと仝孫康が、帯方郡を設

けた背景には、支配と言う共通したイメージが働いていたに違いない。

 唯、郡都の設置する状況、立場、等条件が違った。

 時の武帝は、国家の隆盛を背に四郡を支配したが、企孫康の場合、緊

張した対数関係で、楽浪より少しでも身近に倭、韓の勢力下へ連絡が

取れる場所として、帯方郡を選出した。

 当然、高千穂峰と楽浪の直線は開かれていたので、帯方郡はその道

の下に決められたのである。

 もし邪馬壱国を奈良県に比定した場合、帯方郡設置のとき何故黄海例

の帯方郡を選択したのか。

 奈良の邪馬壱国は楽浪郡、帯方郡へ臣下として詣でる場合、既に西日

本全土を平定していなければならない。

 奈良の九州、西日本の平定は東晋の立国三百十七年以後と思われる。


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 まだ色々奈良と邪馬壱国の関係で不合理な点が幾つも有るが、この問

題は此れぐらいにして次に進む。

仮に、九州に邪見壱国連合と狗奴国という強大な国家が二国、存在して

居たとする。

 一国が滅びて残った国が、九州を統治為るということは当然だが、二国

あれば両雄並び立たず、簡単に国情は其の自由を許さない。

或る時期、王都を狗奴国より少し離し距離を置き、西晋の協力のもと、九

州王朝を維持したが、それはあくまで応急処置であり、国家安泰には繋

がらない。

 幸い司馬炎が尊敬した祖父のことは、卑弥呼も良く知った間である。

 今も司馬炎と壱与の関係は引き継がれている。

 中国思想から友、遠方より来る又楽しからずや、遠方の友が来れば益

々司馬炎の人格が称えられ、夷狄の場合更に尊敬の的になる。

 司馬炎は壱与に取って、一つ下であるが、同年代のしかも異性である。

 男として応援することにより、壱与の野望が成功し倭国が安定するなら

ば、天下の徳は更に増し、取り巻く臣下の評価は計り知れない。

 司馬炎は、其のような性格の持ち主だった。

 壱与は彼の性格を利用したつもりはないが、遷都の野望は留まることを

知らなかった。

 今を去る十余年、十三歳で倭国女王に君臨した壱与は、冷静に判断の

できる大王に成長した。

 母なる卑弥呼と叔父の男王を西都原に葬り、塞曹掾史張政を父として

、中国の帝王学を身につけた。

 張政は事細かく帯方郡太守に報告した。

 又、帯方郡太守は倭国の状況を、刻々と国都洛陽に伝えた。



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  前漠の七代皇帝、宣帝は賢明で、政治をつかさどった霍光[かっこう]

と共に民生に心を注いだ。

 帝は五代武帝の意志を守り、西域の大国トルコの一派、烏孫と同盟を

結び匈奴[フンヌ]を撃退した。

 烏孫[ウソン]に西域都護[せいいき]を置き、鄭吉を西域都議官に任命

した。

 鄭吉は西域の三十余国を治め、母国中国のため国威を示し守った。

 都護府は中国傘下の諸外国の秩序と安寧を保つ目的で、中国辺境の

地に置いた役所だが、漢代以来唐代迄続いた。

又、臨時に置かれた地域もある。

 軍務軍政官の任務を兼務する塞曹掾史張政は、本国の許可のもと、現

在の宮崎県西都市に臨時都護府を設置した。

 きらびやかな楼閣、城柵、絢爛豪華な神殿、居室、政務室、謁見の間

は、見事に調和して狗奴国を凌ぐ荘厳さである。

 ここに壱与と張政は城郭を一にした。

 古代文化の都市西都は、政治、文化、経済の中心を成し、邪馬壱国の

成長を帯方郡太守は喜んだ。

 現在の西都市は、昭和二十八年一九五三年施工の町村合併促進法

により、昭和三十年四月妻町と上穂北村が合併し

て西都町となり昭和三十三年四月都於郡村、三納村を合併、同年十一

月市制を施工、西都市になる。

 昭和三十七年四月三財村、東米良村と合併、現在に至る。

 現在の地名西都市は、女王壱与の思いが再来したに違いない。

 唯、役所の話によると、古くはこの辺りを妻と言ったが、更に古く昔から

西都原は、在ったと言う。

 先祖の宗家の面目を達成した女王壱与は、次なる計画に着手した。

 それは都濃町と川南町の間に流れる名貫川南の隆起扇状台地、標高

八〇Mの地に、母なる卑弥呼の遺志を継ぎ、狗

奴国、大隅半島の鹿屋の条理を擬して、先祖の霊を慰める海の見える

丘条理を完成させる事であった。

 弐百六拾五年、司馬炎は、魏の元帝を滅ぼし、西晋の立国を成し、晋

の武帝として即位した。

 即刻、女王壱与に報告が届き、張政等一軍の安否を気遣い早速其の

対策に着手した。                                                 


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  既に、その日の到来を予測していた女王壱与は、一年の猶予を置き

、西晋の軍隊に帰属する約束を、直接武帝に取り

 張政は壱与の遠大な計画を実行に移すため、名貫川の条理建設の傍

ら、秘密の造船所を築造し、大軍船計画を実行

に移していた。

 今は冷戦を保ったが、特に狗奴国に対する監視は強化された。

 奈良遷都の実行は、張政を中心に綿密に計画され、既に地元奈良の

用地確保は手が打たれ、土地の一部の反対者に

たいし、厳罰をもって対処した。

 京都、奈良、和歌山、大阪、神戸、等近県の種人達は驚いた。

 鎧、兜に身を固め、腰に長剣、手に弓矢、馬に跨がる者数千はいる。

 更に、馬が牽く戦車に載る者数千、後は、槍、刀、弓、鼓笛、鉞鉾、等

数万、魏国黄幢、倭国日の丸、毎日の様に続々と入場してきた。

 どこから見ても奈良近辺、隣国種人の出で立ちでは無い。

 又、倭人の姿でも無い。

 町中の下戸も大人も逡巡[草むらに引き下がりひれ伏す、しゅんじゅん

、と言う]して草に伏せ、或いは蹲り[うずくまり]、跪き、両手は地に拠す。

 これは相手方に恭敬を表す証しである。

 声を掛けるとすべての種人は噫[アイ]という。

 貴方に属し、従うと言う証拠である。

 属する、従うとは、身を任せる、命だけは助けてください、と言う意味を

含み、所謂、完全に全面降伏を表す。


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  日本書紀、古事記では、難波より河内で神武東征の折り、長髄彦に

敗退したと有るが、壱与の場合、中国の歴史的軍師、諸葛亮公明でさえ

打つ手が無かった遼東の総裁、司馬懿其の参謀他、兵士壱万数千名が

倭漢連合軍の中に加わって、強行した実施作戦で有る。

 遷都計画は何の手違いも無く完了した。

 更に軍船の計画も、名貫川周辺、耳川七ツバエに建造の音、高らかに

木霊して、壱艘又壱艘、人、荷、馬、に分けて建造されて行く。

 中国歴史の野心、邪ま[よこしま]は必ず滅びる。

 壱与の場合、天下の王道、理念に基づき中国支援を得て、倭国統一

を目指し、無血陥落を実施した。

 壱与十三歳の折りから、中国の英才教育により帝王学と宗家を守り、

母なる卑弥呼を以て鬼道と侮られた宗家を

大道によって天子を崇め奉ると、言わしめようとしている。

 名貫川の扇状台地に計画した古代条理は、国見山と男鈴山の角度に

より竣工し、先祖の霊を慰めた。

 軍船もほとんど進水し、大阪難波の港に向かった。

 差し羽の胸の白鳥が、一気に伝わる黒潮に乗って、大船団が奈良の都

に遷都して行ったのである。

 会稽東治、帯方郡、邪馬壱国の母なる山、高千穂峰の三角形を擬し後

世高天が原と言わしめた大和三山を構築、人民の安寧を願った。

 野望の途中、命を絶った前の女王卑弥呼の目を見張る墳墓も完成した。

 残る祈願は狗奴国を征服し、倭国統一を図り朝鮮南部の安定を願うば

かりである。

 朝鮮南部は倭国の拠点、狗邪韓国を足掛かりに安定はしていたが、魏

国の帯方郡植民地化を除いて、常に北方や高句麗、奥地の侵略を目的

とした戦闘行為の態勢に油断はできなかった。

 私なりの意見であるが、大和三山の考え方は、擬山により魏国と韓国

、倭国の三国関係を開示し、中国に対する畏敬の念を種人に知らしめ、

民主的な質問と答弁を得て、独裁的とは言え多数の人の判断が為さ

れたという公開認知の始まりである。

<二一二ページ>


 他に大古墳建設の考え方は、王者の貫禄を示し、諸国王に威厳を示す。

 兎に角、種人の安定と国家の権力をバランスよく見せつける必要があ

った。

 一つ付け加えると、中国朝貢に詣でる旅の姿は除き、太守や皇帝の面

前では、絳地交龍錦[こうちこうりゅうきん]、

青絳[せんこう]のように、鮮やかな赤や青の光沢ある絹織物で縫い上が

った衣服を纏い、一M位の大刀を腰に帯び、中国朝廷の儀礼服と何ら引

けを取らないいで立ちであった。

 この状況を考えると、吉野ケ里の建物の色合いは衣服と不釣り合いで

あり、恐らく奈良の政庁は絢爛豪華で、色鮮やかな磨きかかった建造物

であったと推測できる。

 五世紀の頃、宗書倭国傳の中に登場する倭の五王の一人倭国王武の

上表文に書かれた、大道とは何かについて、考えて見たいことがある。

 文は、古田武彦先生の「古代は輝いていたU」を参考させて頂きました。

 倭王上表文

 中国の遠方にあり、倭王の使命を受け、一つの藩として天子の命令を

守って参りました。

 先祖の倭王は、自ら甲冑を身に纏い、山川を越え、安らぐこと無く、東

方の毛人五十五国を征服し、西方の衆夷六十六国を支配、更に海北の

韓の地九十五国を従わせて参りました。

それらによって、天子のお気持ちは少し安らいだこととおもいます。

 我祖先は、少しでも領地を広げ、天子から遥か離れた所まで、命令が

及ぶようにやって参りました。

 代々、天子に拝し、朝貢は違えた事は、御座いません。


<二一三ページ>

  臣下の私は、いたって愚かな者ですが、忝なくも祖先の偉業を受け

継ぎ、馬を駆って統一した国々を率いて自然の大道に帰し、これを崇め

ております。

 道は遥か百済の彼方に連なり、武装して軍船を整えて参りました。

 しかるに、高句麗は其の大道を失い、企みを持って楽浪、帯万、百済

地方を征服しようとしています。

 また、韓国の辺境の民を奴隷として掠め取り、殺害して止むことがあり

ません。

 秩序は乱れ、従来守られていた風俗を無くし、楽浪、帯万、えの道を進

もうとしても、通行できる日と出来ないとき

がある有り様です。

 臣下の亡父済は、高句麗の反乱者が、天子の領地、楽浪、帯方郡え

の道を妨害するのを憤慨し、百万の兵を率い天子の正義の為に出発し

ようとしたとき、父と兄を亡くしたのです。

 其の為、高句麗征伐は、無念にも成功直前に挫折しました。

 父兄の喪も明けいざ次の出陣のとき、天子の諒闇に当たり兵を動かせ

ず高句農征伐を延期しました。

 今は、兜や兵器を整え、無念悔しさに消えた父兄の意志をここに実現

させてやろうと思います。

 天子の先陣を切る虎賁の士として、正義の武功を立て、白い刃が眼前

に切り結ばれようと、危険は顧みません。

 天子の徳を我が軍に受け、強敵に打ち勝ち、先祖の功に傷か着くよう

なことは致しません。

 密かに私を開府儀同三司の任に着け、私以外の部下たちにも称号を

授けて下さい。

 天子に対する忠節を、更に尽くすよう励まします。

 以上の文は、二十四史の一つ、六朝の宋の正史で、其の中の倭王武

の上表文である。

 帝紀十巻、志三十巻、列伝六十巻、全巻百巻より成る。

 四百八十七年、六朝の梁の沈約が、斉の武帝の勅を請けて撰述し翌

年完成した中国正史である。

 
<二一四ページ>

  倭王武の上表文は、順帝の昇明二年四七八年使いを遣わしたとき

の表である。

 天子の諒闇[りょうかん]とは、大明八年四六四年南朝劉宗[なんちょ

うりゅうそう]の孝武帝の薨去を言う。

 さて、もう一文、次は魏志倭人伝の中から道を取り出してみよう。

 其の国、邪馬壱国は本来、今も昔も男が国王だった。

 所が或るとき、倭国は戦乱に陥り、互いに来る年も来る年も、戦闘状態

がつづいた。

 戦いを終結させるため、後漢霊帝の宰相董卓と、終戦の任命を受けた

遼東、楽浪太守公孫度は、戦争責任者を処分した上、倭国代表と協議

を重ね、一人の女子を共立して女王に即位させた。

 生涯七十有余年で、一生を終えた女王の名は卑弥呼、倭国の方位、

方向、道、駅の先駆者である。

 私はこれらを指し示す直線を、天空の直線の科学と言う。

 中国では、女王が測る天空の直線の科学の大道を鬼道と称した。

 この直線を以て大道を決定し、民衆を引き付ける行為を、中国では女

王に対して、衆を惑わすと表現した。

 景初二年二三八年、魏帝より其の十二月親魏倭王に叙せられたが、

其のとき既に長大六十七歳を数えた。

 独身主義を通し、弟王が掃政を務め、女王を補佐し国を治めている。

 卑弥呼は、親魏倭王に叙せられて以来、殆ど民衆の前に顔を出さなく

なった。

 女王卑弥呼は、宮廷に女官千人を侍らせたが、唯一人男子の侍従が

いた。

 女王の食卓の用意を女官に命じ、外来者や臣下の辞を女王に伝え、

部屋に直接出入りすることが許されていた。

 厳かに彩られた宮廷は宮室、楼観、城柵が揺るぎなく立ち、女王が統

率する軍隊が随所に配置、配備され、宮城を厳格に守護し、忠節を以て

国家の保護に務めている。

 さて本題の大道であるが、前述の道に関係した文を抜粋してみよう。

 @ 国々を率いて自然の大道に帰し、これを崇める。


<二一五ページ>

  A 道は遥か百済の彼方に連なり々々

 B 高句麗は、其の大道を失い々々

 C 楽浪郡、帯方郡、えの道を進もうと々々

 D 天子の領地、楽浪郡、帯方郡えの道を妨害する

 E 鬼道に事え、能く衆を惑わす

 この六っつの文章のうち、始の@からD迄はおよそ千五六百年前の

文章とはいえ、現代人が素直に理解するうえに何ら問題は生じない。

 しかしEの倭国の女王が、鬼道とか衆を惑わすとなると少々どころか

大いに問題が生まれてくる。

 鬼道はシャーマン、巫女であると言ってしまえば、鬼道と巫女が同じと

いうことになり、巫女に鬼道ですかと仮

に問えば、神道ですと答えるに違いない。

 すると、鬼道は神道であると答えているのと、全く変わりない。

 宗教に原始宗教も近代宗教も、区切りを入れるところが見つからない。

 新興宗教にしても祖になる人が、太古と繋がらないだけで、内容は太

古と繋がっている場合が多いから、言葉の順にまとめると、およそシャー

マニズムを帯びた宗教は鬼道ということになる。

 このようなことを言うと天下の宗教家の人々や、研究家の人々に対して、

天に向かって唾する様で、本心でこの様なことを言っている訳でない。

 私がここで言いたいことは、卑弥呼の場合、鬼道は天空の大道である

と言いたいことである。

 女王が、鬼道で衆民を惑わし、永遠の国家が維持される訳がない。

 現に魏志倭人伝の中に、人を惑わし、法律を犯すや、軽い者で其の妻

子を没収し、重き者、其の門戸及び宗族を没す、 女王が作った法律を、

自ら破る訳がない。

 とある。

<二一六ページ>

 良政、悪政共に政治という者は、往々にして現実より未来図を描き過

ぎるあまり、温もりのない法律の世界に没入するが、その時現出した宗

教家によって暖かい手を差し伸べて戴き、つかの間でも悼む身体を癒し

て貰う。

 流儀があればそれに則って行うことは、言うに及ばない。

 政治が、宗教色を帯び過ぎたり、宗教が軍力を持つことは、歯止めが

効かなくなると破綻する。

 卑弥呼の鬼道の場合、五斗米道、太平道には関係を持たないし、朝鮮

の天神、鬼神でもなく、鹿ト、亀卜では規模が小さい。

 天武令、天武八年六七九年一月七日、の詔勅に、諸王は、母とは言え

王の姓で中ずんば拝むこと許さず。

 凡そ、諸臣は亦卑母を拝むことを許さず。

 諸王、諸臣及び百寮は、兄姉以上の親[うから]、己の氏長を除く以外

は、拝むことを許さず。

 正月の時ではないといえども何時も拝むことを許さず。

 若し犯す者あれば、事と次第によっては厳罰に処す。

 天武のこの詔勅こそ、古代天空の科学と決別させた張本人である。

 天武にとって太安万侶をして、[諸家の伝わる本辞及び帝紀は虚偽の

為、今誤りを改めなければ幾年もせず過去の歴史が滅びてしまう。偽り

を削り真を定め、後の世に伝える。]と言って歴史を天武の物にしたが、

ミクロに迫る時代が世界的に到来して、我が国が地球の覇者に成れそう

で成れないジレンマは、真に勿体ない限りである。

 天武には草壁、大津、高市、河島、忍壁、芝基六皇子がいた。

 六百八十一年二月弐拾五日のことである。

 草壁が皇太子に就くとき、[我々は、異母成れど母一人から生まれたとと

同様力を合わす。]と言った。


<二一七ページ>

  草壁皇子の母は持統である。

 大津皇子の母は持統の姉大田皇子である。

 高市皇子の母は胸形君徳善、壬申の乱の功労者の娘尼子媛である。

 六百八拾六年九月九日、天武天皇、薨去。

 持統皇后、臨時称制によ天皇代行となる。

 六百八拾六年拾月弐日、大津皇子、謀反の罪で捕らわる。

 翌参日、死罪、死去。

 六百九十年、称制四年、持統天皇即位。

 六百九十年、持統四年七月五日、高市皇子太政大臣就任。

 六百九十六年、持統十年七月十日、高市皇子死去。

 六百九十七年、持続十一年八月一日、珂瑠皇子、第四十二代文武天

皇、即位、以上、天武と持続の略歴であるが、壬申の乱と重ね合わせる

時、人の欲望の深さをしみじみ知らされる。

 東洋で学校が初めて開校したのは、中国周代である。

 教育は文字が中心で、象形文字を竹片、木札に刻んだ。

 漢代は文字が整い、三国時代は、近代と変わらぬ位発展した。

 三国志は、このとき書かれた中国の歴史書である。

 著者は中国の歴史学者、文豪、陳寿承祚[ちんじゅしょうそ]である。

 二百三十三年、巴西郡安漢県、現在の四川省南充県出身、同郡の学

者焦周の弟子として、蜀漢朝の観閣冷史となる。

蜀漢が魏に滅ばされた後、魏の宰相、張華の推挙により三国志を編纂す

ることになった。


<二一八ページ>

  三国志は、魏書「魏志」三十巻、蜀書「蜀志」十五巻、呉書「呉志」二

十巻、合計六十五巻よりなる。

 倭国、古代の日本、二、三世紀について書かれた魏志倭人伝は、魏志

東夷傳、第三十、倭人の条が本来の名称である。

 魏志倭人伝は一千八百年前の中国、国家の歴史書であり、小説では

ない。

 当時、日本人が倭人と呼ばれたころ、我々の祖先が残した足跡が、今

の中国の正史に書き記されている。

 紀元前或いは、紀元三、四世紀迄中国が倭国の領有権を所有し、倭

国が中国皇帝の臣下であったころから更に遡っ

ても、中国が倭人を攻めて領土を拡大した、と言う記録はない。

 倭国が朝鮮半島に関与し、倭国統一しながら其の国々を中国に献じた

記録は残されている。

 話は変わって今から二千四、五百年前、中国、周の戦国時代に書かれ

た山海経の中に、[蓋国は鉅燕の南、倭の北にある。倭は燕に属す。]と

いう重要な一文が残されている。

 広辞苑によると、燕は周代戦国七雄の一つ、始祖は周の武王の弟、召

公セキ、河北、東北南部の旧南満州、朝鮮北部を領し、荊[けい]今の北

京に都があった。

 前二百二十二年、四十三世で秦の始皇帝に滅ばされた。

 周の西伯[文王]には、発[武王]、周公旦、召企セキ三人の子がいた。

 長男、発は前一千百二十二年、中国古代王朝殷を滅ばし周を建国、武

王と称し、皇帝の位に就いた。

 弟、周公旦は兄武王を補佐して、国の基盤を強化した。

 弟、召公セキは、燕の始祖と成った。

 般の王族箕子は、殷王朝幽閉の身を周公旦に救出されて、朝鮮北部の

大同江の北に王険城を設け、朝鮮王に君臨した。

 山海経に言う[倭は燕に属す]と言うことが事実とすると、朝鮮北部も又

燕の国であり、朝鮮王箕子家は代々、前百九十五年衛満によって滅ば

されるまで九百二十七年間、倭国と朝鮮王箕子家とは、同属であったと

言うことに 
<二一九ページ>

 なる。

 この事実関係から推測出来ることは、箕子氏が朝鮮南と倭国の連合を

認めていたことであり、倭国は自由に遼東を越えて、洛陽に詣でることが

出来たと考えられる。

 九百二十七年間の朝鮮王箕子氏は全て安泰だったということではない。

 前四百五十三年には周王朝ば衰退を見せ、変わって戦国七雄が並び

立った。

 秦、楚、燕の旧三国と斎、趙、魏、漢の新三国ある。

 燕が戦国七雄の強国のころ、倭囲、朝鮮半島も揺るぎなく、他国の影

響を受ける様なことはまずなく、秦が形成を

窺い燕が渤海を挟んで斎と宣戦布告するや、倭国、朝鮮南北共に参戦

するに及び、燕、斎、双方国力の衰退甚だしく、その時、秦は、ようやく

東方に駒を進めた。

 前二百五十六年、秦王政は、周の赧王[たんおう]を捕らえて周を滅ば

した。

 前二百二十一年、遂に秦が、中国一統の業を成し遂げた。

 前二百六年、天下の情勢がまだ落ち着かず、北方の匈奴の対策に追

われ、遼西、遼東半島より東方の対策は、倭国、朝鮮半島を含めて混

乱に陥っていた。

 揺らぐ朝鮮半島の情勢を眺めていた燕の衛満は、大同江の北岸、王

険城を攻め、前百九十五年、遂に箕子の末裔を滅ばし朝鮮王衛満とし

て君臨した。

 倭人、衛満一族は同族だったが倭国、朝鮮半島が、三代目衛満に従

ったかどうか、定かではない。

 前二百六年、秦王子嬰は、漢中の劉邦に破れ、秦は十五年にして滅

び去った。

 前二百二年、劉邦は天下を統一し、長安に都して、漢の高祖を名乗った。

 前百四十一年、国力が充実しているのを背景に、完全な国内統一を目

指して、第五代武帝が即位した。


<二二〇ページ>

  丁度その頃、燕の出身衛氏は自立して朝鮮王と称したが、孫の代に

なって、漢の命令には従わぬようになった。

 前百八年、武帝は朝鮮王衛氏一族の居城、大同江の王険城に攻めの

ぼり、ここを討ち滅ばした。

 そして王険城を中心に楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡の四郡を置き

、漢の領土とした。

 倭人、朝鮮南部と武帝の係わりは、見逃がせない重要課題を我々祖先

は処理したと推察できる場面である。

 紀元八年、前漢の一族、孝元帝皇后の弟の子、外戚の王莽[おうもう]

は、儒教政治を旗印に、其の立場を利用して人心を掴み人が集まった。

 自ら平帝の摂政皇帝の位に上り、孺子嬰を立てて、平帝を殺した。

 やがて、真皇帝と称し、良い制度を悪政に変え、重税を課し、国を困難

に陥れた。

 国号を新と改めたが、漢の景帝の遠孫、劉秀は兵を発して、王莽の大

軍を昆陽に打ち破った。

 二十三年、王莽は乱兵によって殺された。

 二十五年、劉秀は王莽の悪政を正した後、帝位に就いた。

 賂陽に都を設け、後漢の光武帝と称した。

 その後、後漢が辿った主な道は、百六十六年に党錮の獄、百八十四年

には黄巾の賊が起こり、国乱れて、百八十九年、袁紹は国賊宦官を退治

したが、既に遅く、二百八年には赤壁の戦いが起こり、我が倭囲も卑弥

呼の時代を迎え、百九十年には遼東太守に公孫度が就任、魏、呉、蜀

漢の三国が並び立ち、戦乱の中に倭国女王卑弥呼も参戦する。

 公孫淵も自立して、燕王と名乗り、遼東の危惧を招く。

 魏志倭人伝を著書するに当たり、倭国の情報を収集していた作者陳寿

は、周囲から寄せ集まる資料を見つめながら、高千穂の峰について、邪

馬壱国の人達が、ヤマと発音していることを知った。

 或いは既に知っていたと思われる。

 更に調べるに従って、漢代に中国で言う邪が、倭国の発音で、ヤと読

まれていることも分かってきた。


<二二一ページ>

  又、世界に類例の無い象形文字を代表し中華思想に基づく山で有る

ことは、既に記憶していた。

 高千穂峰の呼称についてはっきり言えることは、古くは、古事記のなか

に認められることで有る。

 高千穂峰の有り難さに肖ろうとするためか、地元都城盆地周辺は、高

やタカの発音を町村名に冠したところが今

も多く残るが、繰け返す行政の合併により過去の名称を今は調査の方も

無い。

 漢字の起源は定かでないが、今有る最古の漢字は、紀元前十三、四

世紀のものである。

 それは、中国河南省北部の安陽付近の殷の都跡から出土した甲骨文

字と、金文で有る。

 金文とは青銅器の側面に鋳こまれた文字のことである。

 発見された形態の中には、現在用いられている漢字と同じものもあり、

漢字の内容の原則的なものもその中から

引き出すことが出来る。

 私は漢字の妙味から二、三世紀を象形文字の立場に立ち、魏志倭人

伝を解読することに成功した。

漢字の知恵を書かれた、遠藤哲夫先生はこのように言われているが、

私も全く同感である。

 邪の大里偏は、牙の右側に有るから大里で、限の様に左側に里が付

くと、小里偏という。

 大里偏は、口と人が跪いた形で出来ている。

 口は一定の場所を示し、全体では人の居る場所を表す。

 部首となって、村里、居住地、地名、国名等に関係する字を作る。

 牙と大里が一体化した邪は、古代は人が集まる場所を表した、と書い

てある。

 この解釈を基本に、邪馬台国に付いて解明して見よう。

 邪は、牙と大里で成り立っている。

 牙は、二つの物がかみ合った様子を表す文字で、噛みあうことから牙

の意味に使う。


<二二二ページ>

  又、動物の前歯と奥歯の間にある大きな鋭い歯の意味で、身を守り

助ける等に使い、例えば竿の先に象牙の飾りの

付いた、天子の旗、牙旗を立てて、そこを牙城と言った。

 馬は、今では家畜の一種に過ぎないが、古代、周の時、六芸の一つ、

教科の中に御と言う馬の学問が始まった。

 御は、行くと止まるを合わせて道を行くと成り、それに卸、即ち馬を養う

を加えて、馬が道を行く意味を表し、操る

治める、馬を旨く乗りこなす御者、世を治める、侍る、そばに仕える天子

に関係することに付ける言葉の意を示す。

 童は酒壷と吉のいっばい詰まるとを合わせて、壷の中で酒が発酵して

いっばいになる意味を表す。

 重要な文書では、数字の混同を避けるため壹を使う。

 國は口の囲むと或るとを合わせた字で、或るは一定の領域を区切って

守備する様子を書いた字、それらを合わせて国は区切って、囲った領域、

つまり国を表す。

 以上を踏まえて、邪馬壱国を漢字の成り立ちから、陳寿の残した考え

方を探って見よう。

 邪馬は邪馬壱国を始、狗奴国、其の周辺の国々、中国で言う下戸、大

人、婦人達が礼拝する山のことで、国王以下全員が遥拝した。

 邪馬壱国だけでも、七万数千戸の老若男女、四、五十万がいた。

 其の頂点に立つのが女王卑弥呼である。

 その邪馬こと山、其の山名は霧島連峰高千穂峰である。

 遥拝は邪馬こと山、高千穂峰を拝するのみならず帯方郡からみて、東

南の直線を拝んだのである。

 遥拝の立場は、臣下として天子の代理を崇め奉ったのである。

 高千穂峰の名は後世、古事記に「故爾[ここ]に天津日子番能邇邇芸

命[あまつひこほのににぎのみこと]に詔りたまいて、天の石位[いわくら

]を離れ、天の八重多那[やえたな]、雲を押し分けて、伊都能知和岐知

和岐[いつのちわきちわき]て、天の浮橋に宇岐士摩理[うきしまり]、蘇

理多多期[そりたたし]て、日向の高千穂の久士布流多気[く しふるたけ

]に天降りまさしめき」と謳われた。


<二二三ページ>



 陳寿は、邪馬壱国の国名を文字に当てるため、中華思想の夷狄感情

のうえに立ち、適する文字に苦労の跡が見受けられる。

 彼は、後世に残す歴史的事実と当時の立場を、上手に邪馬壱国の文

字の中に織り込んだ。

 あれから凡そ壱千八百年、もし象形又字の立場が今の社会に認めら

れるなら、初めて陳寿の感情と意志がここに開く。

 [正始八年二百四十七年、卑弥呼以て死す。住まること七、八十年]卑

弥呼の人生である。

 ここで卑弥呼の即位した年、どのような世界が開かれていたか、卑弥

呼の皇帝である中国後漫のドキュメントから探って見よう。

 三国志に次のことが書かれている。

 [桓、霊の間、倭国大乱す]

 桓帝は、百四十七年から百六十七年、二十年間即位した。

 霊帝は、百六十八年から百八十九年、二十一年間即位した。

 即ち、百四十七年から百八十九年の間、凡そ四十一、二年間倭国々内

が内戦に陥って、同属が相争っていた。

 倭国々内の戦乱が終焉を迎える条件として卑弥呼が立ち、中国後漢の

権力を握ろうとしていたのが董卓である。

 卑弥呼が即位した時期と黄巾の賊が平定された時がほば同時期と考

えられるので、黄巾の賊を背景に三国志から卑弥呼の時代を覗いて見

よう。

 通俗三国志、湖南文山[江戸期の人]を参照した。[現代文は著者が

訳した]世の末を視るに、古より今に至るまで、治、極まる時乱に入り、

乱極まるとき治に入りぬ。


<二二四ページ>

  その理、陰陽の消長寒暑が往来するようである。

 漢の高祖、三尺の剣、引っ提げて、秦の乱を平らげた。

 哀帝の時まで二百余年、天下治まり何事無く、王莽の時、位を奪って

大いに国乱れた。

 光武これを平らげて、後漢の世を興した。

 質帝、桓帝の時まで、既に二百年に及ぶ。

 光武帝以来、十二代の天子を霊帝という。

 桓帝の譲りを受けて、十二歳で帝に即位す。

 此のときの大将軍は賓武[とうふ]大伝は陳蕃[ちんばん]司徒は胡広

[ここう]この三名は天下の政務を司り 帝を補佐した。

 内官に曹節甫王と言うものがいた。

 帝を欺き権力を思うままにしたため、賓武と陳蕃はこれを誅せんとして、

かえって己の身を害した。

 これより内官、権力を握り、朝綱を手に握った。

 建寧二年四月十五日、帝が温徳殿に出御して御座に付こうとしたとき、

俄に強風が起こり、長さ二十余丈の青蛇、梁の上から飛び降りてとぐろを

巻いた。

 帝は驚いて、土のうえに昏倒した。

 騒動は大きくなり、百官上を下へ反して武士を召して、これを引き出そ

うとしたが、消すがごとく失せて、雷の鳴は天地を砕き霞交じりの大雨は

、夜中になって静まった。

 同四年二月、賂陽は大地震に見舞われた。

 人家皆大波に呑まれて、百姓死する者、数を知らず。

 これはただ事ではないとて、改元して熹平と号した。


<二二五ページ>

  如かれど辺境で謀反する者あり、改めて熹平五年、光和と号した。

 されど怪異が起こり、雌鳥が化して雄となった。

 六月朔日、十余丈の黒煙地から起き温徳殿に入り、秋七月には玉堂

内に虹が現れ、五原山の岸は悉く崩れた。

 その他、怪しきこと数を知らない。

 これは天下の大事だと、郡臣を金商門に集め、災いを除く術をした。

 光禄大夫楊賜、議郎祭邑の二人「近年怪異のことが起こるのは、亡国

の兆しである。天は漢朝を捨てていない。

古より天子が怪を見れば、徳を修と言う。今内官、乱りに権力を持って

天下の災いを為す。早くこれを除くと、天災自ら消ゆ」と密かに奉聞したら

忽ち漏れて、楊賜と祭邑、内官に殺されようとしたが、呂強、祭邑の才を

惜しみ命を乞い助けた。

 中平元年甲子の年、鉅鹿郡、張角と言う者がいた。

 二人の弟を張梁、張宝と言った。

 ある日、薬を採るのに山中に入り、一人の翁に会った。

 眼は紺碧、顔は童子、手に杖を持ち張角を呼び、祠の中に連れ込んだ。

 三巻の書を見せて言うには「これを太平要術と言う。お前は此の書をよ

く読み常に道を行い、善を施し天に代わって世の人を救くわんことを思え。

若し悪心を起こすと必ず身を滅ばす。」と言うのを張角再拝して、その人

の名を問う。

 「我は南華老仙なり。」と言うと、一陣の風が吹き起こり、行方も知らさ

ず飛び去った。

 張角は昼夜学んで遂に、雨を呼び風を起こす術を得て、自ら太平道人

と号した。

 その頃天下に疫病がはやり、死者が多く出た。


<二二六ページ>

  張角は治療を施し、病は殆ど治らぬものがいなかった。

 人々は張角の屋敷の前にきて平伏した。

 張角はこれより大賢良師と号し、五百余人の弟子を四方に分けて病を

救った。

 三十六の方を立て大小を分かち、皆将軍の名を以て方位をなずけた。

 大方を行うもの一万余人、小方を行う者六、七千人、みな一方の長を

立て[蒼天既に死す、黄夫正に立つべし歳は甲子にありて天下大吉。]

と言いはやらせ、甲子の二字を書き、郡県、市鎮、宮観、寺院、に配した

がどれも皆これを推挙しないものはいなかった。

 その後も洛陽の各州は、大賢良師張角と書いて敬い、貴ぶこと鬼神を

礼する如くなれば、張角の心の中に、非分の心を持ち始めた。

 先ず大方の馬元義と言うものに金銀を持たせ、禁裏に入って密かに十

常侍と手を組んだ。

 封誚徐奉等に内通のことを頼み、二人の弟張梁、張宝に[得がたきは

民の心。民の心は私の者。若し今を逃せば、万人の望みを失ってしまう。

二人の本位を知りたい。]と問う。

 二人の弟、[元より望むところなり]と言う。

 張角は喜んで黄色い旗を作り、三月五日、事を決起し、弟子の唐州に書

簡を持たせ、内々頼んで置いた封誚徐奉等に告知させようとした。

 途中、唐州の心俄に変じて、直ちに奉行所に駆け込みことの子細を訴

えた。

 帝は驚き大将軍何進に命じ、内応しようとした者千余人を牢獄に下した。

 事件の発覚と同時に張角は、速やかに兵を起こし自ら天公将軍と号し

張梁を地公将軍、張宝を人工将軍とした。

 百姓を集め[漢の運気、既に尽きた。今、大聖人が世に現れた。汝ら天

にしたがって、泰平を楽しめ。]と言うと四方の愚民、続々と現れ、皆黄色

い絹の布を頭に包み、世の人は黄巾の賊と号した。


<二二七ページ>

  張角は四、五十万の勢いを得て、在所在所に火を放ち、人の財産を掠

め取る。

 大将軍可進、所々に命じて軍勢を求め、盧植、朱?、皇甫嵩[こうほすう]

の三人を大将にして、三手に別れて追討させた。

 此のとき張角の一軍、幽州、燕州の境を大勝し太守劉焉は、防戦のため

校尉鄒靖[すうせい]に命じてあちこちに高札を立て、忠義の兵を募った。

 その頃琢県楼桑村に一人の英雄がいた。

 この人は常に言葉少なく、礼は人に下がりヽ喜怒色に表さず、天下に名

ある人を友として志しは極めて大きい。

 身の丈七尺五寸、両耳肩に垂れ、左右の手は膝を過ぎ、よく目を以て其

の耳を顧みる。

 漢の中山靖王劉勝[ちゅうざんせいおうりゅうしょう]の後胤、景帝の玄

孫、名は劉備、字は玄徳、父は劉弘稚けなくして失った。                                       ・

 母を助けて孝を尽くし自ら履を売り、筵を織って稼業とした。

 舎の東南に大いなる桑の木がある。

 李定と言う人、此の木を見て貴人がでると言った。

 時に二十八歳、天下に黄巾の賊蜂起して、忠義の士を募ると聞き高札

を読み長嘆して帰ろうとすると、[国の為に力を出さず長嘆するとは]と詞

[ことば]をかける人がいる。

 後ろを見るとその人、身の丈八尺、豹頭環眼、燕領虎髭声は雷の様、

勢い奔馬に似たり。

[某は張飛字は翼徳、世々琢郡に住まいして、少しの田地、酒売り猪売

りを稼業として、専ら名ある人と交わる。

 玄徳曰く[今は流落たれど、本は漢室の宗族、劉備字は玄徳、黄巾の

賊、我これを平らげ助けんと思えど、力の足り無さを恨んでいる。]


<二二八ページ>

  張飛が言う[我が心にかなった。なれば我に従う者四、五、人有り。

共に心を合わせ大義の計略を為そう。]

 玄徳の家にきて酒を飲み相談するところに、又一人の男がやって来た。

 一両の車を酒店の門外に留めおき、桑の木の下に座し、家主を呼んで

酒を買った。

 玄徳其の男を見ると身の丈九尺五寸、髭の長さ一尺八寸、顔は棗を重

ねた風貌、唇は丹色の高貴な鳳、眉は若くして出世するという臥蚕状の

眉、総じて相貌堂々、威風凛々、迎え入れて名を問うと、[私は河東解良

の出身、関羽、字は雲長、始は寿長と言う。五、六、年前郷里の豪雄が

私を馬鹿にした。私は勢い余り、彼を殺した。今は江湖の間に逃れ流浪

中で有る。黄巾の賊蜂起し国々の守護が英雄の士を招いている。私は

其のためにやって釆た。]玄徳は其の話を聞いて喜んだ。

 関羽も天の助けと叫び、共に張飛の家に行き義兵を起こすことを約束

した。

 玄徳は年長として二人の兄と成った。

 張飛が言うには、[わが家の桃園の盛んな庭で、明日白馬を宰し天を祭

り鳥牛を殺して地を祭り、三人生死の交わりを結ぼう。三人姓氏異なるが

結んで兄弟になり、心と力を協力し漢室を助け、上は国家下は万民を救い、

同じ日に生きるを望まず同じ月日に死んで、義に背き恩を忘れば天人共

に誅する。」と誓いの祭りが終わり玄徳を長兄、関羽を次兄、張飛を末とした。

 共に玄徳の母を拝し郷里の若者を集め、桃園で酒宴をすれば三百余

人に及んだ。

 明日旗を挙げようと協議したが、馬一匹いない。

 案じていると、誰とは知らないが数十人打ち連れて、多くの馬を引きな

がらここにやって来るという。

 玄徳は[これ天、我を助ける。]と言う。

 外に出て見えば、中山の大商人、張世平、蘇雙の二人、[毎年北国に

出向き馬を商いしているが、今年は賊が道を塞ぎ往来が出来ない。今

空しく郷里に帰るところです。]


<二二九ページ>

  玄徳は二人を迎え入れて酒宴を為し賊を退治し漢室を助ける話を語

れば、二人の商人志を感じ、駿馬五十匹、

金銀五百両、鉄一千金を送った。

 玄徳これを受拝し良巧に二振りの剣を打たせ、関羽は重さ八十二斤の

青竜堰月刀[せいりゅうえんげつとう]を作り、冷艶鋸[れいえんきょ]と

名付ける。

 張飛は一丈八尺の蛇矛を造って、甲冑と共に備えて、いざ時を逃さず

、其の勢五百余騎幽州に至る。

 太守劉焉大いに喜び名を問うと、漢室の宗親と聞き相親しむこと叔姪の

様である。

 時に黄巾の賊徒、程遠志は五万余騎にて琢郡を犯した。

 太守劉焉は校尉鄒靖を大将として、玄徳を先陣と為し打ち向かって戦

った。

 玄徳五百余騎で大興山の麓に出陣すると、賊軍五万余騎で陣勢を張る。

 玄徳、関羽と張飛を左右に備え[反国の逆徒早く降参しろ]と呼ばわる

と、賊の陣より副将鄭茂というもの、馬

を飛ばして打って掛かる。

 張飛眼を怒らし虎髭逆さまに立ち一丈八尺の矛を廻して出で迎え、唯

一合にて馬より落とし首取して徐々帰る。

 賊の大将程遠志、怒って斬りかかる。

 関羽これを見て八十二斤の青竜刀頭上に掲げ馬を躍らせ立ち向かい、

程遠志、勢いに押され恐れて退く所、一太刀洛びせて切り殺す。

 賊軍の大将討たれて、皆降人となる。

 玄徳、打ち取った首を路の巷に掲げさせて、功を収めて幽州に帰る。

 太守劉焉は、喜んで出迎え緒軍を厚く賞した。

 その時、青州より早馬が来て太守共景急告すると報じ、驚き牒文を拡

げてみると[黄巾の賊徒城を囲んで一大事 で有る。兵を興して、後ろ攻

めせよ。]の命である。

<二三〇ページ>


 劉焉は玄徳を呼び [如何するか。]と聞いた。

 玄徳は[行って救いたい。]と言う。

 劉焉は喜んで鄒靖[すうせい]に五千余騎を授けて、玄徳を先手として

青州に向かった。

 玄徳の一軍、賊の陣地に押し寄せよく見ると、皆髪を乱し黄色の絹で

額を包み八卦の文書を証しとして、救助がくるのを見ては引き別れ、戦

いにならない。

 玄徳、五百余騎にて戦ったが、賊は目に余る大勢で、新手を入れ替え

入れ替え防ぐため、玄徳、戦い屈して三十里引き下がり、関羽、張飛と

相議して、これでは勝つことが難しいと結論づけた。

 明日、騎兵を出して賊を破ろうと、関羽に一千余騎授け山の左に伏せ

させて、更に張飛に一千余騎、右に伏せさせ金をならすを合図と決めて、

次の日鄒靖と玄徳一手になって押し寄せると、賊の大勢は潮の如く襲い

かかって、関の声を高く震った。

 玄徳暫く戦う振りをして退けば、賊軍更に追いかけて来る。

 既に山の辺に近づき、玄徳合図の鐘を鳴らすと、左に関羽、右から張飛

二手に分かれて討って出る。

 三方に囲まれた賊軍、大敗して四方八方に逃げ散った。

 玄徳勢いを得て、青州の城下に殺到した。

 城中寄りこれを見て、太守共景は門を開いて討ち出ると、賊軍前後に度

を失い、右往左往と落ち失せて青州の囲み忽ち解けた。

 太守は感謝し、重く諸軍を賞した。

 鄒靖は軍を収めて、幽州に帰る支度をした。

玄徳が鄒靖に話すには[近く、中郎将盧植、勅命を受けて賊の首将張角と、

広宗で戦うと聞いた。私は昔、公孫
<二三一ページ>

 賛と共に盧植を師とした。今行ってカを合わせ、責方と共に賊を平らげた

い。]

 鄒靖が言うには[私はまだ主の命を受けていない。軽々しく行動をする

ことが出来ない。貴殿が若し行くなら、兵糧は思うようにして良い。幽州の

兵隊は全員、私が連れて帰る。]

 玄徳は別れて、手勢五百余騎引き連れて、広宗に至り盧植に見えて目

的を話すと、重く賞して手下に留めた。

 此のとき、賊の首将十五万の勢いにて、広宗にたむろして官軍五万の兵

と日久しく交戦し、未だこれといった勝負が無かった。

 盧植は玄徳に向かって言うには[賊軍みな要害に引きこもり急に勝負は

無さそうだ。賊の弟張梁と張宝二人、頴川「えいせん」に有って官軍の皇

甫嵩「こうほすう」と朱儁「しゅしゅん」と相戦っている。今お前は一千五百

余騎にて急ぎ此れより頴川に行き、戦いに加わり其の為一千余騎の官軍

を貸し与えよう。]

 玄徳は牒状を受け取り、千五官余騎で頴川に向かった。

 皇甫嵩と朱常は、賊将張梁、張宝と挑み戦う事数度に及び、賊の勢い討

ち負けて長社に引き下がり、草木の深いところに陣を取った。

 皇甫嵩壱軍を密かに敵の後ろに廻し、後の諸軍に投げ松明を持たせ、

夜中四方より押し寄せて一度に火を掛け、関の声を挙げて攻めのぼれば

急に風が吹き火の炎天を焦がし、賊軍上を下えと騒ぎ立て、馬に鞍を置く

暇も無く、勿論ヽ甲冑を被るにも及ばず十万に散乱した。

 張梁、張宝逃れて走りだすと、向かって来る一彪の軍馬が有る。

 皆紅の旗を立て、先に進は此れ一人の英雄、身の丈七尺細眼長髭、胆

量、人並み外れ大きく、謀、衆を越える。

 常に斉桓、晋文、匡扶の丈なきを笑い、趙高、王莽の縦横の策を嘲り、

兵法は呉子、孫子に劣らず、沛国樵郡の人曹操字は孟徳小字を阿瞞、

又は吉利とも言う。


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  漢の相国曹参より二十四代の後胤にして、大鴻膿曹嵩が嫡男である。

 黄巾の賊を破るため、官軍五千余騎にて参戦した。

 路を塞いで攻め戦い、首をとること一万余り、馬物の具えも奪い取る。

 皇甫嵩、朱常に見え、一手に逃げる敵を追いかける。

 玄徳は此のとき頴川に来た。

 賊が敗れるのを見ながら皇甫嵩に出向き、盧植の牒状を手渡した。

 皇甫嵩が言うには、今賊軍大きく敗れて走りだしたが、必ず広宗に行き

、張角と出合うに違いない。

 貴方は早く駆け帰り、盧植に力を合わせ、決して怠ってはいけない。

 玄徳、又広宗を指して引き返すところに、向こうより二、三百人の兵、罪

人を車に乗せてやって来た。

 玄徳は誰かと思い近寄って此れを見れば、乗っている罪人は、中郎将

盧植である。

 驚いて馬から下りて、[どうしたのですか。]と聞けば、盧植涙して言うに

は、[私は長い間広宗にいて張角を取り囲み、度々戦って勝利したが、

張角が怪しき術を施すので、未だ、悉く破ることが出来なかった。最近黄

門左豊と言うものが、勅使としてやって来た。左豊は賄賂をだせと要求し

たが、我が軍中には金銀乏しく勅使に奉る物が有りませんと答えた。する

とこの答えに対して左豊、深く私を恨んで帝に申し付け、曲げて罪に落と

し、このように召し捕らえた。今は董卓を大将に広宗の賊を追撃している。]

 張飛、聞き終わると同時に大いに怒り、守護の武士を殺して盧植を救

わねばと願ぎ立てる。

 玄徳はそれを止めて言うには[これは天子の勅令で有る。お前は少し

騒がしい。]

 関羽も言う。[今は盧植は官を罷免された。我々は琢郡に帰ろう。]

 玄徳等はこれにしたがって、兵を引いて進んで行くと、直ぐ後ろの山で

関の声が聞こえて来た。

 馬煙り夥しく起こり、丘の上に登ってこれを望むと、広宗では官軍に戦は

負けぬと、黄巾の軍勢、天公将軍と書いた旗を先頭に、官軍を追いかけ

ていた。

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 玄徳はこれを見て[張角の軍勢だ。官軍を救わねば大変な事になる。


]と言う。

 関羽と張飛、馬の轡を並べて撃って出れば、張角の軍勢驚いて、こん

な伏兵がいるとは、今来た道が塞がれると思い込み、我先に引き返し始

めた。

 玄徳は調子良く進んで、賊の勢四方八方え討ち散らし、五十里余り追

いかける。

 董卓は広宗の戦に負けて賊に追われ、誰とも知らぬ他の軍勢が打って

出て、賊軍を蹴散らしたと聞いて玄徳に、立ち寄り出合い、礼を終えると

[今、如何なる官職か]と質問した。

 玄徳は官位が無い由答えると、董卓は軽くあしらって、恩賞も与えなか

った。

 張飛は怒り[我ら、血を流して大敵を破り、彼の董卓の命まで救いなが

ら、仮に恩賞が無くても芥のように軽んずるとは、どう言うことか。私は此

のような人間を生かしておくことは許されない。]と言いながら、矛を舞して

入らんとするのを関羽は引き留め、玄徳は [冷静になれ。董卓は官の位

が高い朝廷の臣下で有る。殊に軍馬を領する数は夥しい。我らもしこの董

卓を殺せば、必ず謀反人と呼ばれるだろう。]

 此のようなところに留まる必要は無いと、その夜兵を引具して、朱筒の

陣え走り帰った。

 朱筒は喜び出迎え、やがて先陣として、賊将張宝の陣に攻めのばった。

 賊の大将に高昇と言うものがいた。

 馬を駆け寄せて、張飛に切り込んで来た。

 張飛慌てず矛を舞して二、三合戦い、馬から下に斬って捨てた。

 官軍これに気を得て、一度に関の声を上げ攻め込んだ。

 賊将張宝、髪を馬上にて捌き手に剣を執り、口に呪文を唱えると俄に風

雷鳴りはためいて、黒雲の中より人馬が軍勢力を付けて討って掛かると

官軍驚いて、散り散りに逃げ出すと、勝ちに乗じて掩殺した。



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 夥しく現れた。



 玄徳は敗軍の兵を集め、朱肯と敗北の原因を追求した。

 朱満はこれを妖術の結果と決めつけ「何も心配することは無い。明日、

羊と猪の血を持参し、我が軍を山の頂上

付近に隠忍させよう。

 賊の軍勢が押し寄せたとき、一度に血を降り掛けると、此の妖術は必

ず破ることが出来る。

 玄徳は朱常の言に従って、五百の軍勢に羊猪の血と汚らわしいものを

用意して、次の日兵を進め、山の頂上に伏せ置いた。

 賊将張宝、昨日と同じように髪を捌いて呪文を唱え、風雷天地を振動さ

せ砂を蹴ってやって来た。

 黒雲の中から潮が湧き出すぐらいの人馬が、目前に迫ると玄徳は、突

然馬を反した。

 賊軍此れを追って山頂の道にかかるころ、一斉に鉄砲が鳴り響き、更に

五百の官軍全員現れ、申し合わせの汚れ足る物撒き散らすと、忽ち空中

より紙で造った人形、草を束ねた馬、粉々に地におち風雷は自然にかき

消えた。

 賊軍、法が破れたのを知って、退却し始めたとき、山の左より関羽一軍

を引いて躍り出た。

 又、張飛も一軍と共に打って出た。

 官軍、散々に暴れると討たれる者数知れず、張宝は一方を打ち破り道を

奪って逃げるのを、玄徳、地公将軍の旗を目がけて的を絞り、弓を曳くと張

宝左の肘を射られ、陽城え逃げ籠もった。

 この日の合戦で、賊の軍勢は三万余人打ち取られ、降参する者数知れず。

 官軍、続けて陽城を囲み、日夜息も継がず攻め込んだが、要塞堅固で

未だに落ちない。

 早、一月も経過して曲陽え使いを馳せ参らせ、皇甫崇が賊将張宝と戦う

勝負の行方を、使いの者に持たせた。

 使いがやがて帰って釆て皇甫嵩に報告した。


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  [董卓が勅命を下されてから久しく張梁と戦っているが、官軍は毎度利

を失っている。朕は董卓と代わらしめることを皇甫嵩に命じる。]皇甫嵩は

帝の命令に従って、董卓と入れ替わった。

  皇甫嵩は戦場より兵を引き、賊の首将に討ち向かった。

 しかし、賊の首将張角既に死亡し、弟張梁王者の礼を以て、兄張角の

亡骸を葬った。

 その時、皇甫嵩、新しい手勢を引を連れて、速やかに攻め掛かり、七度

も戦って勝利し、遂に張梁を曲陽にて斬り殺した。

  張角の塚を掘り返し、其の斗目を洛陽に上らせた。

 降参する者十五万、討たれる者は数知れず。

 皇甫嵩この功により、車騎将軍盆州の牧に封ぜられた。

 武騎校尉曹操も、この度の忠戦によって済南の相に封ぜられた。

 朱筒此れを聞いて [早く此の城を落としお前達もみな恩賞にあずかれ

]と号した。

 大軍力を合わせ、斬られても射られても恐れることをしらないで、喚き叫

んで攻めのぼれば、城中既に色めき立って、最早落城と見えたところに、

賊の軍勢に厳政と言うものがいた。

 張宝の首を差し出し、城を開いて降伏した。

 朱筒ここを平定して賂陽に奏聞した。

 朝廷の百官此れを聞いて、朱常に官爵を賜る会議中、南陽から早馬が

きた。

 黄巾の残党に趙弘、韓忠、孫忠の三人がいて、十万余騎の浪人を集め

州郡を動乱すると告げた。

 群臣帝に奏して言う。[朱筒、今陽城を平らげて、その軍勢が六万余有り

、此れを使って討たせて下さい。]と

申し上げれば、帝、詔を申し下された。


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  朱肯直ちに宛城に着くと、賊の大将趙弘はこの情報を得て、まず韓忠を

行かせて防戦した。

 両方の軍勢、広野に陣を張り、玄徳真っ先に進み、太鼓を鳴らし関の声

を上げ、辰の刻より午の刻迄勝負の色着かず、朱筒自ら精兵を繰り出して

、二千余騎城の東北から掛かったら、賊軍後方を塞がれまいと思い、急

に引き下がるところ、玄徳前に出て差し挟んで攻め寄せれば、賊軍討た

れる者の数知らず、皆我先に宛城に馳せ入った。

 官軍四方を囲んで、厳しいこと水も通さなかった。

 城中既に兵量尽いて援軍もなく、賊将韓忠人を出して降参を願い出た。

 朱筒大変怒って、急に益々激しく城を攻め出した。

 その時玄徳が言うには、[昔、漢の高祖が天下を得たまいしは、よく降

参の人を用い賜う故なり。今賊軍、降参を望んでいる。何故将軍は許さ

れないのか。]

 朱常笑って言う。[お前の言うことは分かっている。しかしこういう機会

は、誠に天が与えたときでもある。

 昔、秦の世が乱れて項羽のような輩がお互いに争い躾て、天下に定ま

った天子がいなくなってしまった。

 高祖は此の経験を生かし、降参する者はどのような仇でも懐柔された。

今漢帝一統の世に黄巾の賊だけが禍を起こしている。もし降参したからと

言って許すなら、何を以て善を教えれば良いか。賊徒がしたい放題悪逆

を為し、己の利を失するときは降参して、身を恙無く守るならば、此れは

悪人を長引かせる道である。私の理由は此のうえにたって、根を断とう

としているのである。]

 玄徳はこの論理に服して、また告げて言うには[今此の城を水も漏らさ

ぬように四方より囲み、一人余さず討とうとするなら、賊は必ず心を合わ

せて討ち死にするだろう。万人が心を一にして戦うなら、我が軍も若干損

害を蒙るだろう。大敵を開き攻めるのが良い方法である。それが逃れる

とき、追い打ちを掛けると勝つに違いない。]

 朱筒領いて [私も同じである」と言った。

 東南の囲いを解いて、西北え攻めのぼると案の定、城中の軍勢我先に

と東南の門から逃げ走った。


<二三七ページ>

  官軍勢いに乗って追い撃ちすると、賊将韓忠既に朱常に射殺された。

 現場には趙弘、孫中大勢を率いて馳せ参じた。

 追っての官軍は火を放ち戦った。

 朱筒は賊の軍勢が多くいるのを見て少し引き下がろうとすると、賊軍は

此の機に乗じて潮のように進み、又宛城を取り返す。

 官軍は若干討たれ、十里退いて陣を取った。

 其の暮れ方、斑にしか見えないが、東の方から軍馬が遠馳せやって来る。

 真っ先に進んでいるのは、広額潤面、虎体熊腰、呉郡富春のひとにて

孫堅、字は文台、古の孫子の末葉である。

 しばしば功が有って、これまでは下丕の丞で有る。

 黄巾の蜂起を聞き、准泗の精兵一千五百騎を率い参る。

 朱筒は孫堅に南門を、玄徳に北門、自らは西門、東一方をわざと囲まず、

ここは敵の心を一つにさせないで、自由に心易く走らせようと計ったので

ある。

 孫堅はこの日が初戦である。

 目が醒める一戦をするために、自ら馬より飛んで下り易々と濠を越えて、

城中に登り入った。

 此れを討とうとして城中の勢、犇々と集まって来たが、孫堅刀を舞して目

の前の敵二十余人を斬り殺し、残る勢を八方え追い散らした。

 賊将趙弘は無念さの余り、馬を飛ばして討って掛かる。

 孫堅これを事ともせず敵の矛を甲冑の柚に受け、趙弘の腕を握りすくめ、

遂に矛を引き奪い趙弘を刺し殺した。

 趙弘の馬に乗り、渦巻く軍勢の中え喚めいて駆け入り、左に突き右に

撞き勇を振るって駆け回ると、賊将孫忠堪えかねて北門より逃げ走った。
<二三八ページ>

 

 玄徳は此れを見かけて更に追いかけ、一矢に孫忠を射落とすと、官軍

我先にと城中になだれ込んだ。

 首を取ること数万級、南陽の諸郡悉く平定し終えた。

 朱筒都に帰って車騎将軍河南の尹に封ぜられ、孫堅は内縁あって別

部司馬に叙せられた。

 然し玄徳一人、未だ恩賞の沙汰はなかった。

 心は鬱々として楽しくない。

 或るとき禁門の前で郎中張均に出会い、功労あったが恩賞が無いと語

ったら張均驚いて、急ぎ朝に出て奏門して申し開いた。[近年、黄巾の

賊が起こり乱れた原因を調べたら、十常侍が帝を欺き、人の賄賂を受け

ては、功のない者に官禄を与え、賄賂を送らない者には官を与えない。

 ここが人民の恨みとなって遂に天下の乱となった。

 早く十常侍の首を刎ね、一首ずつ南郊に掛け並べ、遍く天下に告げて

功或る者に恩賞を賜れば、四海自ら平安になる。]と憚るところ無く申し

述べた。

 十常侍、側に在って驚き怒り[張均、帝を欺いて我々を謗るとは何事か

。武士に命じて首を切らすであろう。]と言った。

 張均は気を失って絶命した。

 帝はこれに御心尽きて、何様が黄巾の賊を破って功あるのに、恩賞に

預からぬものが居ればこそ張均が諌めたに

違いない。

 そして功あるものをお尋ねされた。

 玄徳は中山府安喜県の尉に叙せられた。

 玄徳は恩を謝して、即時に関羽、張飛と二十余人を従えて安喜県の宮

所に行き、県中の政を治められ、一月ばか


<二三九ページ>

 りで人民はみな其の徳に感謝して、今まで強盗悪逆の名を持った者も

己を恥じて、心を改め良民となって従った。

 玄徳は関羽、張飛と食事は卓を共にし、寝るときは床を同じくした。

 四ケ月ばかり過ぎたころ、天子は州郡に詔を下した。

[この度黄巾の賊を平らげるに当たって、軍功有りと偽ってつてを頼って、

妄りに官爵を承けたものが多い。善く

善く此れを正すべし。]と触れられた。

 安喜県も、漏れ無く督郵がやって来た。

 玄徳は遠くに出迎え、馬を下り地の上から礼を為した。

 督郵、馬の上から鞭で指揮して回答した。

 関羽、張飛側に立って其の無礼な態度を見て歯を食い縛り、敢えて言

葉には出さず共に従って館の中に入った。

 督郵は横柄な態度を少しも直さず、正面に高座した。

 玄徳慎んで階下に直立した。

 二時間位経ち督郵は質問した。[玄徳の由来は如何]。玄徳答えて言う

[其れがしは中山靖王の後胤にして、琢郡より黄巾の賊を平らげ、三十

余の戦いを経て此の県の尉に叙せられた]。

 督郵、大変叱り、[お前の様な卑しいものが偽って天子の宗族と称して、

功労も無く妄りに官爵を望んでいる。

この様なことだから天子は嘆かわれ、私に勅して沙汰し正させたまう。]

 玄徳は黙然としてその場から退き、下吏を呼んで[督郵威張って人を脅

かすとは如何なることか。]と問うに下吏答えて言う。[此れは賄賂を取

るためです] 玄徳は言う。[私は民を治めて、例え小さなことも犯した事

も無い。何で彼に渡す銭が有るものか。]といって遂に賄賂を与えなかった。


<二四〇ページ>

  次の月、督郵賄賂を貰えなかったことを怒って、下吏を呼び付けて[玄

徳妄りに民を害す]と訴状を書かせて、受け取った。

 玄徳が館門に着いて入ろうとすると、門番のものども入場することを許さない。

 不思議と思いながら退去したが、然し心の中は不安で、落ち着かなかった。

 折りから、張飛は酒を飲んで、唯一人馬に乗って館門の前を通り過ぎよう

とすると、年老いた人や百姓達が泣いているではないか。

[どうしたのか」と問うと、答えて言うには、[督郵、賄賂を取らんがために

県吏を呼び付け訴状を書かせた。


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