邪馬壹國  7南九州の神社、仏閣が結ぶ国見山、直線の科学2
           都城の邪馬壹國

                             著者  国見海斗 [東口 雅博] 

<一六〇ページ>

  劉表の嚢陽城は、山に守られ水に囲まれ荊州無双の要害だから、孫堅が幾日攻めて

も難攻不落、城は落ちない。

 考えあぐねている所、ある日俄に強風立ち起こり、中軍の帥の軍旗が二つに折れた。

 兵は恐れて、「悪い知らせ」と云う。

 孫堅が申すには「風は天地の呼吸の気なり、何んぞ軽々しく怪しむか。それより早く城を

攻め落とせ。」と号す。

 劉表が昨夜天文を見るに「将星一つ地に落ちて、此れを度[はかる]に孫堅に応じた。

今一人の大将を出立させて、袁紹のもとえ遣わす。」と云う。

「私が行く」と大将呂公が申し出た。

 呂公軍馬を揃え、射撃手を交え日の暮れを待ち、東の寄せ手が少ないのを見計らい城

門を開いた。

 劉表は、呂公の軍五百余騎を送り出す。

 孫堅、夜中に「我が戦陣の前を通るのは誰か」と訝り、やっと気が付き一騎残さず討ち取

らんとて、諸大将えもしらせず自ら真っ先に進む。

 追跡はしたものの、山の上迄来たとき木の葉が茂って、路が見えない。

 忽ち敵の行方を見失い、森を急いで出ようとしたとき、山から大石が投下されること、蝗

の飛ふが如し。

 更に四方の森陰より、矢を射られること暴風雨の激しさを見る。

 憐憫なるかな孫堅、大石に打たれ、頭蓋を微塵に砕かれ、身に立矢は蓑の毛のようだ。

 従う兵三十騎と露と滅びる。その年三十七歳。初平三年辛未十一月七日、西暦百八十

九年、倭国女王卑弥呼十八歳のときである。

 先年玉璽を盗んだとき、偽りの誓詞を成した天罰と、この度のことが思い合わされて、恐

ろしいことである。

 孫策、父が見山にて討たれるを知り、「屍は何処に有りや」と尋ねると、敵が既に城中え

取り入れたと云う。

<一六一ページ>

  「我、面目無し、生きて国に帰れぬ。」

 黄蓋[コウガイ]が云うには、「敵の大将黄祖の生け捕りと、君の屍を取り替える交渉を

すべし。」

 劉表が云う、「孫堅の屍ここに有り。黄祖を送り返し戦を止め、再び犯さぬ約束有るなら

孫堅を戻すべし。」

 董卓長安に有り、呉の孫堅が討たれたことを知り、「我が病一つ除けたり」と喜ぶ事限り

無し。

 父孫堅と黄祖に代えて軍を収めた孫策は、屍を江東の曲阿の原に葬り、父にも勝る大

国を築くに至る。

 技、朝廷の公家衆は董卓を恐れ、地に拝服して命令を聞くに至る。

 司徒王允[シト、オウセン]は、我が家に帰ると董卓の悪行を心に思い、天を仰いで涙を

流す。

 王允には、我が子のように愛する十八歳の貂蝉[チョウセン]と云う、美女なる娘がいる。

 王允娘貂蝉に云う「今、連環の計を用いてお前を呂布に与え、その後又董卓に与え、こ

の計をお前に行わせて、二人が間を隔たり遠ざけ、呂布を欺き董卓を殺させる。

 連環の計に依る漢の力は、貂蝉[チョウセン]、お前に掛かっている。」

 貂蝉、喜んで云うには「妾、既に命を大臣に奉る。大人、御心を安んじて下さい。妾、もし

此のことを仕損じた

ら、万刃の上に死して世々人の身を受けませぬ。」

 翌日、使いに呂布の家まで案内状を持たせ、呂布が司徒王允を尋ねて来るようには借

り酒肴を用意して待った。

 案の定、呂布がやって来たので、中門まで出迎え堂上に招き上座を譲った。

 呂布笑って酒を飲んでいたが、その時貂蝉を呼び呂布の前に拝す。

 呂布「此れは誰か」と問えば、王允答えて「我が娘貂蝉[チョウセン]と云うものです。

侍女に如何がですか。

 呂布喜び頻りに貂蝉の顔を見る。

 貂蝉も又、情を寄せる。

<一六二ページ>

  王允は、近々吉日を選び、貂蝉を呂布宅に送る紛束をした。

 翌朝王允は、呂布が出掛けた留守を確かめ葦卓の前に拝伏し大師に酒宴を誘い、明

日来訪の約束をした。

 王允の屋敷で酒宴が始まり、天子を敬う礼の様にして奉り、董卓愈々喜び宴たけなわ

になる。

 王允、董卓を後堂に案内すると、護衛の兵を残し唯一人進み来た。

王允、盃を取りながら云うには、「漢の運気尽き、天下新しく起ころうとして、天下は一人

の天下に非ず。天下人の天下で有る。古より、徳無きは徳有るに譲る。此当然の理であ

る。」

 董卓、笑ろうていうには「天運我に帰せば、司徒を重く用うべし。」

 王允、再拝して此れを謝す。

 夜に入り堂中に灯を灯すと、光りは白日の様である。

「私共の家の女楽を御一覧下さい。」と云い王允簾[スダレ]を巻き、音が耳に韻律[インリ

ツ]し貂蝉、袖翻[ヒルガエ]し外に舞い歌う。

 一曲終わった後董卓感激のあまり、今一曲と所望して、貂蝉又舞う。

 董卓喜び、貂蝉近づき再拝し、王允は貂蝉に命じて盃を注かせた。

 董卓、笑って手を取り「誠に神仙の人だ」と云う。

 王允は「此の女、もし太師に仕えるなら幸せです。」と云う。

 夜も深けて、董卓別れて相府に帰った。

 その直ぐ後、数十騎の武士共、馬を使って馳せ参る。

 王允を引掴み眼を怒らせ申すには、「己は貂蝉を我に与えると約し、何ゆえ董太師に献

[たてまつる]のか。」

 王允少しも騎がず後堂に招き話すには「我、昨日、朝に出で足る時、董太師我を召して、

明日、汝の家に行くと云われたので、酒宴を設けて待つと、やがて来られて、汝近頃貂蝉

と云う女を、呂布に与えると約束したであろう。

<一六三ページ>

  其れならば先ず、我が家に送り遺わせと云われた後、我、吉日を選びしかる後、呂布と

夫婦に成して与える、と云われ帰られた。我、尊命に背くことは出来ず。」

 呂布は「軽々しく司徒を疑ってしまった。無礼の罪、如何して償えば良かろうか。

 王允が「近いうちに婚礼が有る。」と云うと、呂布は拝謝して帰って行った。

 呂布は早朝相府に出て侍女に「太師は」と聞くと、「昨夜貂蝉と床を共にされ今お休みで

まだ起きられない。」

 呂布堪えかねて閏の辺りに行くと、貂蝉鏡に対し化粧をしいている。

 眉を潜め憂うる体をなし呂布を見れば、呂布の心恍惚として退きも出来ず、董卓既に起

きて中堂に座って居る。

 心も浮かれ魂も飛び貂蝉の方に見とれて居ると、董卓、呂布の態、乱るるを怪しみ「退

け」と云い、我に返った

 呂布、仕方なく家に帰る。

 呂布の女房は顔色が悪い呂布を見て「董太師に叱られたか」と尋ねると、声を荒げ「師、

俺を制することが出来るものか。」と云う。

 女房吃驚して再び何も言えない。

 此れより呂布は貂蝉のことのみ妄想に入り、相府に出仕して窺うが、目に見ることさえ許

されず、唯、明けても暮れても茫然としている始末である。

 董卓も又、一と月以上事を治めず色情に迷い引かれて、貂蝉[チョウセン]の側を離れる

事が無い。

 貂蝉も衣帯を替えることも無く、紅の萌え出る身を董卓に絡ませて、熱く引き付ける愛に

心を込めた。

 ある日、董卓久方ぶりに朝に出て天子と政を、論じる。

 呂布は良き隙と思い早馬で相府に帰り、鉾を携え後堂に入り貂蝉に会おうと尋ねると、

貂蝉内より走り出て、まるで月宮の仙子と化してこの世に来る姿である。

<一六四ページ>

  貂蝉は云う「董太師は不仁の心を起こし妾を奪われた。

 此の身は汚れ、英雄に仕えることも出来ぬ。申し訳なく今、死して将軍の念を立つ。」

 呂布は貂蝉を抱き締め涙に咽び「汝の心を知る。恨めしきは夫婦の縁浅き二人、禍[ワ

ザワイ]に罹ワズラウう。」
 
 貂蝉が云う「手を執って妾、今将軍の妻と成ることは最早出来ぬ。願わくば後世の契り

を結び心を安めたい。」

 呂布が云うには「我、もし今生にて汝を妻とせずば、世の英雄と云うに足りない。必ず志

しを遂げようぞ。」

 貂蝉が云う。憫[アワ]れんで妾を救って下さい。

 呂布が云う。「太師に従って朝に出て、密かに隙を見てやって釆た。計を巡らして汝と契

ろう。

 貂蝉柚を引き留めて云うには、「何故老賊を恐れたもうか。すると何時心が安らぐや。妾、

董太師の深き閏の愛の極めに有っても、将軍の名を呼び双びなき英雄に抱かれて入ると

思い、今何故、人のしたに立たれるか。」

 呂布の心、空に浮き手に手を執り体は地を転々とする。

 董卓はこれを侍女より聞き、後堂に貂蝉を召し「汝何故呂布に抱かれる」と責めれば涙を

流し「妾、呂布は大師の子で有り毎事敬まいし所、今は思いも寄らず鉾を持ち鳳儀亭[ホウ

ギテイ]まで追いかけ来る。妾、池に身を投げんとするを急に抱きとめ生きん死なんとする所

を人に見られたのです。」

 董卓が云う。「俺は汝を呂布の妻としよう。」

 貂蝉「妾は既に太師の体、今又、呂の家の妻となるは死しても恥を受けませぬ。」と董卓の

膝に顔を埋める。

 次の日李儒が釆て「貂蝉を呂布の家に送る。」という。

 董卓怒って「汝が妻を呂布に与えることが出来るのか。

 女人の争い我を惑わすことは無い。再び貂蝉を云うわ誓って首を刎ねるぞ。」董卓怒りを

増し車馬を用意して、三十年の兵糧と財宝を蓄える眉う[びう」城に貂蝉を伴った。

<一六五ページ>

  

 董卓が眉う城に帰る沙汰が伝わって、朝廷の百官共全員で見送った。

 呂布の心乱れて茫然としているのを見て、王允が云う。

「此れ畜生の振る舞いで有る。董太師、我が娘を汚し将軍の女房を奪う。天下の笑い草、

万代の耽辱で有る。天下の太師を笑うのみならず、我と将軍を笑う。我は老年、道に足り

ず。将軍は壮年なる英雄、天下の人に笑われ辱められて、女房を奪われた人と呼ばれる

のはくやしい。」

 呂布其れを聞き恨気[コンキ]胸に塞がり、魂を失い地に倒れる。

 働けると「誓って老賊を殺しの恥を注ぐ。」と云う。

 王允慌てて口を被い「将軍、滅多なことを云ってはいけない。若し外に聞こえたら三族が

滅ばされる。」

 呂布牙を噛んで言うには、「悔揺[クユ]るのは、老賊と義を結び親子の約束をしたことで

ある。そうと思っても人の論議を恐れる。しかし心は一決した。必ず老賊を殺す。」

 王允が云う。「将軍、漢を助けて天下を治めると忠臣である。若し董卓を助けると逆賊で

ある。史官は筆を下ろして、悪名後代に及ぶ。」

 王允、事は成就したと喜び、僕射士孫瑞、司隷校尉黄腕の二人を呼び計を議した。

 「弁舌の者眉う城[ビウジョウ]に遭わし[天子詔あり。董卓に帝位を禅譲」と云えば、必

ず喜んで馳せ参る。

 朝門に武士を伏せおき斬り殺す。誰を此の使いに発てるか。」

 王允、呂布を召して語ると「碕都尉李粛[リシュク]が必ず使いをする。董卓も又疑わない

。昔、我を勧めて、丁建陽を殺させたのは李粛である。李粛もし従わなければ壱刀の下に

斬り棄てる。」と云い王允と共に李粛の屋敷に急いだ。

「昔、汝の勧めで丁建陽を殺し董卓に仕えた。今董卓、不仁不義を行い天子を悩まし、万

民を害している。悪逆は天地に及び、汝は眉う城に下がり鼻卓を欺き、ここに呼び上らせ

てくれないか。我、王司徒と計々逆賊を滅ばし漠の天下を中庸して、後の世まで忠臣と称

せられんを思うはどうか。」と云うと、李粛喜んで云うには、「我久しく此め賊を討たんと思っ

たが、力を合わせる人がいなかった。これは天の助けである。」

<一六六ページ>

  即刻十騎従えて眉う城に行き、「天子は勅使として、我を下し賜えり。」と報じた。

 更に、「近頃天子、御不予の事が有り、日々重く成られる御様子で有る。百官を未央殿集

められ、天下を太師に譲ると宣われた。われを以て,この事を太師に告げるよう命ぜられた

。速やかに御上り有りて、九五の位[易で、九を陽とし、五を君位に配する事から天子の位

を云う]に即位有れ。」

 董卓が云う。「司徒王允は恙無きか。」
 
 李粛が云う。「王司徒余りの喜びに自ら受禅台を築き、偏に主上の御上りを待ち申されて

います。

 董卓が云う。「我に近頃竜来て身に纏う。此の慶びに応じよう。時、失うべからず。長安え

上るとする。帝位

に即くと汝を執金吾に封ずる。」

 貂蝉には「我、昔日汝を貴妃と成すと約束したが、今、果たして斯くの如くで有る。」

 董卓は数千の精兵に守護され、車に乗って出立した。
 
 途中董卓の乗った車の輪が折れて、馬が跳ね上がり轡[クツワ]を引き切った。

 俄に大風が吹き、霧深く立ち上り、天地漠々とし、小児の歌が風に吹かれて、物悲しく聞こ

えるが、董卓危険を疑わず前後左右数千の兵に守られ、内裏の外門に到着した。

 百官みな朝服して、出迎えた。
                             
 李粛は手に剣を持って従い、北液門[ホクエキモン]に守護の兵を止め、二十余人の士卒

に車を推させ、禁庭に入ると王允、黄わん[オウワン」剣を持って殿門に立っている。

<一六七ページ>

  董卓これを見て驚いた。

 王允[オウイン]大昔をあげ、「逆臣来たり」と呼ばわった。

 屈強な精兵百余人走り来て、鉾を持って董卓を刺すが、身に鎧を着て少しも通らない。

 車より落ちて「呂布はいないか。これ助けよ。」と叫べば、呂布は、後ろより躍り出て、「勅

令を受けて逆賊を寸つ」と呼ばわった。

 鉾を取って、董卓の喉を突き通すと、すかさず李粛、その首を刎ねて高く差し上げた。

 董卓、享年五十四歳漢の献帝の時、一九二年、初平三年壬申四月二十二日[みずのえ

さる]で有る。

 倭国女王卑弥呼は二十一歳であった。

 扠、繰り返し先述した魏志倭人伝に話に戻し、国見山の直線を此処に再現してみる。

 作者陳寿は冒頭、簡単に[倭人は帯方の東南大海の中に有る]と云う。

 しかしこれほど簡単で、難しい方向は無い。

 唯、帯方郡と名付けたからは、帯のように長い方向を示すイメージの中心が町の存在

感を高めている。

 帯方郡を起点として直角九十度扇状形の東方向から南方向の範囲の中に、倭人が住む

国が有るという。

 帯方郡から真東に直線を引くと、日本海の能登半島更に福島県の猪苗代湖の北、磐梯

山を通り抜け、太平洋の沿岸原町付近に達する。

 およそ北緯三十七度四十分位の所に、現京城[ソウル]の中心地が有る。

 京城が古代帯方郡であるが、不思議なことが有る。

 偶然かもしれないが、此の緯度は原町の国見山五六四が鎮座する場所でも有る。

 帯方郡の東方、第四象限の東南の限界を示し、ここが倭国の始まりかと錯覚する。

<一六八ページ>

  又、東南の終わり、帯方郡から南に向かって東経百二十度付近を直線で引き下ろすと

琉球諸島に直面する。

 要するに帯方郡京城を中心として、東と南の間に倭国が有ると、陳寿は書いている。

 此の倭国の中に倭人が住み、邪馬壱国が有り、今日では九州説と奈良説で古代史の研

究者達が、手掛かりを求めて大論争を展開している。

 作者陳寿は、帯方郡と云う起点を明確にしながら、倭国なら東南の方向で後はどこでも

いい、と云う大ざっばな範囲を示すだろうか。

 陳寿が住んでいた中国の時代、常に戦乱に明け暮れて、朝鮮半島の南や倭国だけが、

平和に農耕を営み、中国の影響を受けずに済んだはずが無い。

 そうだとすると、戦乱に巻き込まれる原因となる帯方郡の設置と云う、基地に詣でる制度

に応じる必要も無ければ、天子に対する朝頁も不必要で有る。

 だから、我々が認識しているような、そんなに甘い犬況でま無かった。

 第四象限九十度の中に存在する東南に、邪馬壱国が有ることを前提条件としておよそ

の倭国の範囲を定めたと思われる。

 当時中国々家の上層部にとって、東南の倭国と邪馬壱国の方向と位置は、常識の範囲

だったとも考えられる。

 若し私が倭志帯方傳とか倭志魏人伝を著すなら、帯方郡太守が居城する地域を中心に

方向を定めるだろうし、魏国の場合も当然天子が起居する洛陽を想い、方位を定める。

 多分私の場所から近ければ、出来るだけ正確に、遠ければ正確に近ずけ、誤差が小さ

くなるように努力し大ざっばな範囲の方位を定めるなら範囲について詳しく説明する。

 作者陳寿が定めた東南は、邪馬壱国女王卑弥呼を意識した方位であることに間違いな

い。

 前述した帯方郡そのものが、方位を示す名称で有ることを加味すると、陳寿の作風がそ

れを見逃すことはない。

<一六九ページ>

  作者陳寿が魏志倭人伝を、後世の中国の歴史書の一部として書き加える目的は、倭

国の二、三世紀の中心人物、女王卑弥呼の生涯を挿入する必要が有ったからである。

 方位を示す帯方郡の結論は、ゆっくり求めることとして、今国を挙げて邪馬壱国を求て、

錦のみ旗教育委員会の名のもとに、三世紀の落とし物を収集するため掘削合戦が繰り広

げられている。

 落とし物の中に国を決定する、重大な鍵が必ず有ると云うのである。

 学者間で定説化しているのは、奈良説と九州説で有る。

 九州説は北と南に別れるが、収集から見ると北が優位であるという。

 神話と遺跡から生まれた邪馬台国も有る。

 宮崎県の夜神楽の町、高千穂町などは、町を上げて邪馬台国を信じているし、中には夜

神楽の詩から邪馬台国を割り出そうと頑張る、知人河内の薬店主後藤さんもいるし、宮崎

県内の人に高千穂町を信じている著名人が沢山含まれている。

 私は先日長い題名になるが、[天孫降臨霊峰高千穂と倭国象徴邪馬壱国そして国見山」、

霧島神宮で講演した。

 霊峰高千穂が邪馬壱国と信じているからである。

漢字の成り立ち、象形文字に選ばれた[山〕、邪馬壹国の[山]、山島に依って国邑を為す

[山]、[山島]の[島]は[鳥]と[山]の組み合わせを使い[鳥見山]を連想させ、会稽東治

の真東に霊峰高千穂が相対峠する

高千穂峰の真南に吾平山丘陵がある。

[その南、狗奴国あり」大隅半島吾平町は宮内庁管轄の鵜草茸不合命の御霊を祭祀した

吾平山丘陵がある。高千穂の峰と吾平山丘陵は、西にも東にも傾かず、真っすぐ南北に

相対峠する。

 以上の条件を個々に槻略結ぶと次のようになる。

<一七〇ページ>
 
  漢字の成り立ちから見た山、象形文字の山、会稽東治の正に東、鹿児島県鹿屋、串

良、の不思議な道路綱、道路綱の中央を抜ける南北の線、南北は全く南北で、高千穂峰

の預上を発し、鹿屋の南、吾平町の吾平山丘陵に至る。

 南北の対峠する距離はおよそ六十三KM。

 [邪馬壱国の南、狗奴国有り、その官狗古智卑狗有り、女王に属せず。]

 [倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。]

 前記二文から推測できる邪馬壱国の南とは、広大な不思議な古道を有する鹿屋、串良の

市と町で有る。

 平面図が描く古道の全体は、直角三角形の形態を成し、その斜線部分は、吾平山丘陵

の東、高山町と内之浦町の町堺に存する国見山八八六を鹿屋市内に存する御嶽一一八

二めがけて、天空の直線を北西に発してやると、桜島の御嶽迄も直線が伸びて、更に対

岸の三船神社に達するが、此の天空の直線と古道の斜線が平行する。

 縦横約二〇〇M、三〇〇Mおよそ六町歩で構成する升目の道路、見方によっては古代

条里制に基ずく古代耕地区画と古道の組み合わせとも見ることが出来る。

 鹿屋の市役所を訪問しても、昭和三十四年に完成したというような回答が来るだけで、

私の質問に対して応答は誰も出来ない。

 事実民家の屋敷が道路を占有しているし、仮に大正末期に完成した道路で有っても、市

民に其れを占有する権利

は無い。
                                     此の項一部終わり
                                     二部につずく

               

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