都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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魏志倭人伝を読む限り、最小の中国文化と歴史について知っておく必要がある。
例えば、夏王朝から始まって、次が殷王朝、其の次が周王朝という位の事である。
それに支那、中国の文化や歴史は漢人が産み、近隣諸国に多大な影響を与えた。
中国文化の発祥は黄河流域から始まり、次第に領土を拡大しながら揚子江方面に
発展した。
その間、文字、船、医薬が開発された。
紀元前一千百二十二年、周の武王は殷の紂王を滅ばし、鏑京[こうけい]に都した。
武王は封建を設け、戦功のあった一族や功臣に土地と諸侯の地位を授けた。
更に朝廷の官制を整え、政治の総理を家宰[ちょうさい]、民政を大司徒、軍政を大司馬、
司法を大司冠、土木を大司空とし、最高責任者を朝廷に置いた。
諸侯の領地の広さにより、企爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵の順位を与えた。
農家に用地を分配し、田制を設けた。
用地を囲の字型に区画し、囲の中央の一区画を納税の義務とした。
後の八区画は農家個人の所得とする。
この方法は古代倭国でも行われた。
農家に徴兵制を義務ずけた。
戦争が起こると招集され兵隊になり、終わると農家に戻った。
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所謂兵農一致の政策を施した。
武器は、軍馬、兵車、刀、槍、弓矢を主力とした。
貨幣が流通し、農具型、刀型が有名である。
学校が開設され、教育内容は、礼[秩序を守る]、楽[人の気持ちを和らげる]、
射[弓術]、御[馬術]、書[読書]、数[数を数える棒を利用する学問]、の六芸である。
周代は文字も発達した。
形は今と違い、竹片、木札に文字を刻んだ。
武王、成王、康王の三代、約七、八十年は安泰だった。
此れを周の強盛と云う。
前七百七十年、周の経国より三百五十有余年、平王は犬戎の難[けんじゅうのなん]
を恐れ都を東方の洛邑[らくゆう]に遷都した。
洛邑は後世の洛陽である。
これを周の東遷[しゅうのとうせん]と云う。
十一代宣王のとき、四方の蛮族が攻め込んだ。
宣王の子、十二代幽王は、犬戎と云う西方の小夷[しょうい」に殺された。
諸王は十三代平王をたて戦ったが、平王は犬戎の難を恐れ洛邑に遷都したのである。
前七百七十年から四百五十三年、約三百十余年間を春秋の世と云う。
この時代、醜い諸侯が次々現れ、周王政を補佐した。
強い諸侯は諸侯の長となり、四方の蛮夷を防ぎ周王政の安全を図った。
諸侯の長を覇者[はしゃ]という。
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齋の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王夫差[ごおう、ふさ]、越王句桟[えつおう、
くせん]の五人を五覇[ごは]と云う。
齋の桓公は管中の才を用い最初の覇者となったが、南方の楚の荘王に敗れた。
前六百三十二年、桓公の死後、楚は晋の文公と戦って城濮[じょうぼく]で敗れた。
前六百六十七年、楚は再び晋を破り一時諸侯を従えたが、どの国が強い国とは言
えぬ状態だった。
呉は楚と戦いながら越とも戦った。
呉王夫差は越王句践を会稽山[かいけいざん]で破り諸侯を従えたが、越は呉と戦って
再び呉王夫差を破り強国になった。
前四百六十五年、句躁が死ぬと越は衰退し、その後諸侯の長、覇者はいなくなった。
前四百五十三年から前二百二十一年、二百三十二年間を戦国の世と云う。
周囲は衰え小諸侯はほとんど滅びた。
秦[しん]楚[そ]燕[えん]の旧三国と齋[せい]趙[しょう]魏[ぎ]韓[かん]の新四国
が周の中心と成り、激しく争った。
この七国を戦国の七雄と云う。
秦国は函谷関[かんこくかん]を門戸とし、西方から他国が攻め入ることは不可能だった。
戦国の世の初め、秦国に孝公という人がいた。
孝公は商鞅[しょうおう]の策で力を得、他の六国を圧した。
此れに対し蘇、秦は合従[ごうじゅう]の策で同盟を作り、六国が力を合わせ秦を攻めよ
うと提案した。
蘇、秦の友人張儀は連衡[れんこう]の計を立て、六国共、秦国に仕えた方がいいと言い
出した。
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こんな話をしている間に、秦は土地を増やし資金を蓄え六国の形勢を窺った。
この時、燕と粛の戦いが始まった。
秦はこの二国が戦い疲れるのを待って、漸く兵を東方に進めた。
前二百五十六年、秦の孝公は、周最後の皇帝、報王[たんおう]を捕らえて周を滅ばした。
秦王政は李斯[りそ]の策を用いて六国の君臣を速く離し、連携の取れぬようにして、
此れらの国を政治追放した。
秦王政は十年掛かって六国を滅ばした。
前二百二十一年、中国一統を成した秦王政は、秦の始皇帝と名乗った。
秦の始皇帝は中国一統を為し、黄河、揚子江の両大河を越え、領土を大きく占有した。
話は前に戻るが、春秋の世の終わり頃、魯[ろ]の国に孔子、名を丘[きゅう]という偉人
が現れた。
孔子は諸侯に修身治国[しゆうしんちこく]の道を説き、世の乱れを救済しようとしたが、こ
の説は受け入れられず第一線から身を引いて弟子を育て、前四百七十九年、七十四歳
で没した。
戦国の世、孔子の弟子、孟子[もうし]筍子「じゅんし]が世に現れ、後世の儒学[じゅがく
]を確立、中国の政治、教育の基礎とした。
この時期、列子、荘子は世事に心を悩ます事なく、白然の運行に任せるべきと唱えた。
其の主旨は、老子に基ずき老荘の学という。
儒教と並び、中国思想の一要素を為す。
此れに並び後に、道教[どうきょう]が起こった。
戦国の世で実用として取り上げられた学説は、揚子[ようし]の利己の説と墨子[ばくし]の
極端な博愛主義の説で、共に乱世に応じた道を講じている。
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他に、法家として、商鞅[しょうおう]韓非[かんぴ]は法令で国を治める術を説いた。
縦横家は[じゅうおうか]列国を統一する計を論じた。
孫子[そんし]呉子[ごし]は兵家として軍隊運用の法を極め、それを説いた。
さて、秦の一統を成し遂げた始皇帝の政治は李斯の言を用い、周代の封建を改め全国を
郡県に分割した。
全ての国を始皇帝の直轄としたのである。
更に民間の武器を回収し、或いは財閥や富豪を国都咸陽[こくとかんよう]に起居させ、
反乱の基を防止し 又、国中を巡幸し天子の尊さを教え、政治の論評する人物を殺した。
民間の書籍を所持する者、或いは発行する書籍は全て焼却させた。
中国、支那の北方に匈奴[きゅうど]と云う民族がいた。
騎馬に長じて戦争を好み、戦国の世のころ度々、中国本土を侵害した。
始皇帝は匈奴の攻撃に手を焼いたが、将軍蒙括[しょうぐんもうてん]に命令を下し討伐
させた。
旬奴の侵入を防ぐため、万里の長城[ばんりのちょうじょう]を構築した。
南方に領土を広げ、阿房宮を始め数百の宮殿を造営して豪奢を極め、外征と土木工事の
為人々を亡くした。
金の出費も夥しく、国民の負担が重なった。
始皇帝が崩じ、第二代二世皇帝が立ち、宦官趙高[かんがんしょうこう]が秦の政治家李
斯[りそ]を殺し、暴政を奮った。
それが発端となり諸地方に謀反者が起ち、中でも項羽[こおう]は江東に、劉邦[りゅうほ
う]は沛[はい]に兵を塞丁げた。
項羽と劉邦は連合を組み、秦の軍隊を打ち殺した。
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劉邦は先陣を切り咸陽を攻略し、秦王子嬰[しんおうしえい]を殺害した。
前二百六年、秦は滅びた。
劉邦に先を越された項羽は西に進み、鴻門[こうもん]の陣中で臣下の范増[はんぞう]
に劉邦を殺せと進められたが、殺すに至らず、咸陽を去り、彭城[こじょう」に帰り着いた。
その時項羽は、西楚の覇王[せいそのはおう]と号した。
諸将に土地を分け与え共に戦い今は良い感情を持たぬ劉邦には、漢中の僻地[かんちゅ
うのへきち]を与えた。
明らかに劉邦を封じ込める作戦である。
劉邦は漢王と号した。
漢王は怒りを堪え、国力を養った。
機が熟すを見計らって、東方に出兵し楚と戦ったが、戦況思わしくなく敗れ去り、漠中に
逃れた。
四年後、臣下の張良、蕭荷[しょうか」韓信[かんしん]の力を借りて項羽を垓下[がいか]
に破り、逃げる項羽を追撃し首を刎ねた。
前二百二年、親王は長安に都を造り、名を漢の高祖[こうそ]と改め、皇帝の位に就いた。
高祖は平民かち起ち、天子に上った。
高祖の政策は一族功臣に土地を分配し、其の土地の王と成した。
同時に直轄の郡県を置き、次に高祖一族以外の諸王を殺し、一族子弟をこの諸王に代えて
、後の患いを除いた。
帝の死後、皇后呂氏の権力が強く、皇后の死後、一族は反乱を繰り返した。
以後、同族諸王の専横は、増々増長した。
第三代の文帝は仁君だったが、諸王の勢力を抑えるには至らなかった。
文帝の子景帝の時、諸王の封国[ふうこく]を削る事に成功した。
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呉、楚は恨んで反乱を起こしたが、帝はこれを平定しこの機会に諸王を国都長安に留めた。
封国は朝廷より人を派遣して、諸国を治めた。
景帝の子、武帝も諸王の勢力を削り、封国を名ばかりと成した。
諸王の勢力は、直轄の郡県と変わらぬ様相を呈するに至った。
加えて文帝以来の倹約に依り、朝廷の財政は豊かになった。
武帝は国家財政の豊かさに乗じて国家統一を完成し、英知を発揮した。
孔子の死後、三百年を経過したが、武帝は董仲舒[とうちゅうじょ]の勧めに従い、儒教思想
に基ずく政治教育を標準とした。
漠代の五経、詩、書、易、儀礼、春秋の教育を深めるため五経博士を置き、儒学が盛んにな
った。
武帝は国外にも勢力の発展を試みた。
この頃倭国にも重大な影響を与えた。
武帝は、古朝鮮北部を手中に収めた。
古朝鮮北部の始めは、殷の王族箕子[きし]が朝鮮王となり、大同江の北岸に王険城を設けた。
子孫が代々君臨し漢代になり燕の豪族衛満[えいまん]が箕子一族を滅ばし、朝鮮北部を奪い
朝鮮王と成った。
衛満の孫の代は、漢の命令に従わず、武帝は兵を出し滅ばした。
武帝は朝鮮北部に真番[しんばん]楽浪[らくろう]臨屯[りんとん]玄菟[げんと]の四郡を設け
漢の一部とした。
秦が乱れ漢が国を起こすころ、再び漢は匈奴に攻撃された。
匈奴に冒頓単干[ばうとんぜんう]と云う王がいた。
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東の東胡とうこ]を撃ち、西の月氏[げっし]を破り漢を脅かした。
高祖は匈奴を征服するため派兵したが、反って、て返り討ちに遭い、匈奴の侵略は止ま
らなかった。
武帝は漢の名将衛青、霍去病[かっきょへい]等名将を派遣し、死力を尽くし匈奴を漢北
に追いやった。
当時、漢の西方の諸国を総称して西域[せいいき]といった。
西域の中央アジアに大月氏と云う民族がいた。
中国の西北境に住居していたが、匈奴に破れ西方に逃れた。
武帝は大月氏と組み匈奴を挟撃することを決意し、張騫[ちょうけん]を遣わしたが大月氏
は応じ無かった。
しかしこの頃に至り、西域の形勢がよく分かり、漢と西域の交通交流が開かれ、交易
が始まった。
更に武帝は秦国最後の乱れに乗じ独立した、南越の内乱を平定し其の地を占領した。
又、西南夷に居た蛮族を服従し、漢の勢力を拡大した。
武帝は頻繁に遠征を行い、晩年には長命不死を願った。
大願成就の為、無益の祭祀を行い、蓄積した財力を消費した。
あらゆる手段を施し、塩、酒、鉄器の専売を始め、国民の財を絞り上げた。
晩年のころ、武帝自ら悔い改めて、専ら国民の安全と財産に心を費やした。
霍光[かっこう]と云う政治家は、昭帝、宣帝二代十九年に亙り良く仕え、平安国家を治めた。
宣帝も賢明で、深く心を民政に注いだ。
宣帝は武帝の意志を継ぎ、西域の大国鳥孫[うそん]と協力し匈奴を苦しめた。
又西域都護[せいいきとご]を置き、太守鄭吉[ていきち]を任命した。
鄭吉は西域三十余国を治め、国威が落ちぬよう懸命に努力した。
しかしその後の諸帝は宦官[かんがん]に惑わされ、或は外戚に圧力を掛けられ、政治の
綱領は全く緩んでしまった。
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外戚の一族に王莽[おうもう]と云う、天下を狙う人物がいた。
西暦八年、王莽は帝位を奪い、国を新と改め政治制度を改革した。
重税を課し、早くも反乱を招いた。
漢の景帝の遠孫に当たる劉秀[りゅうしゅう]は、王莽の大軍を混陽に打ち破り、王莽は乱
兵に殺された。
新は十五年で滅び去た。
二十五年、劉秀は帝位に即き漢室を再興し、洛陽に都を設けた。
劉秀は名を改め光武帝と云う。
光武帝は国内の平定を図り、玉門関の外にある西域には干渉せず,内政に力を注ぎ教化
を盛大にする様努めた。
二代明帝、三代章帝は、良く業を雑ぎ治平が続いた。
インド仏教が、中国に伝わったのはこの頃である。
王莽の時代、匈奴、西域の両国は王莽に対抗し始めた。
八十九年、後漢和帝の時、臣竇憲[とうけん]は匈奴を撃破し勢いを挫いた。
更にこの力を借りて、再び西域に進出した。
班超[はんちょう]を西域都護に任じ,三十一年間,西域に駐留した。
班超は、漢の威力を西域に知らしめた。
班超は遠い西国、大秦に甘英[かんえい]を派達した。
大秦とは,羅馬帝国、即ちローマ帝国、ローマである。
ローマは昔から中国の絹を珍重し交通を望んだが途中、ペルシャに妨害され行き来すること
が出来なかった。
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甘英もペルシャの西界に達したが、ローマに到達することが出来ず、敢え無く本国に
帰った。
百六十六年、桓帝の時、ローマ王アントンは南方の海路より中国に使者を送り込んだ。
此のときからローマの商人は、時々中国にやって釆た。
光武帝より和帝に至る間、国内は平和が続き匈奴、西域共、中国に服属した。
しかし和帝似後、六代の諸帝は幼弱で外戚、宦宮の双方は権勢を交えて争った。
同じ百六十六年党錮の獄を起こし、宦宮を非難する諸名士を捕らえ、ますます憚ることが
無かった。
霊帝の時、黄巾の賊が国中を騒がせた。
宦官は袁紹に滅ばされた。
董卓[とうたく]は献帝を立て暴力的政治に臨み、国中騒然となり、群雄並びたった。
群雄の中で、曹操が勇気と知略に優れていた。
董卓を打ち破り、献帝を迎え入れた。
黄河南北の地を平定し、勢力を伸ばした。
群雄の中の一人、漢の景帝の後裔劉備玄徳[りゅうびげんとく]は、諸葛亮孔明[しょかつ
りょこうめい]と云う賢者を得て其の勧めに従い、江東の孫権と同盟を結び曹操に戦いを
挑んだ。
二百八年、同盟を結んだ劉備玄徳と孫権は、曹操の大軍を打ち破った。
此の戦いを赤壁の戦いという。
現在の湖北の西北で揚子江に臨む山川である。
劉備は巴蜀漢中[はしょくかんちゅう]に拠点を置き、曹操は江北を領有し、孫権は江東に
領土を得た。
二百二十年、曹操の死後、その子操丕[そうひ]は献帝の位を奪い、洛陽に都を造り魏帝
と称した。
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二百二十一年、劉備玄徳は成都、今の四川省成都県に都を造り蜀漢帝[しょくかんて
い]と称した。
二百二十九年、孫権は呉帝と称し、建業、今の南京に都をした。
三国の内、蜀漢が最も小さな国である。
魏の国や呉の国の力量と大差は無かったが、劉備は孫権と戦って敗退し白帝城で没した。
その後、諸葛亮孔明は幼少帝禅を助け、呉の国と和解し幾度も魏国と戦ったが、思うように
ならず戦闘態勢のまま五丈原、の陣中で没した。
諸葛亮孔明の死後、蜀漢は国力が衰退し、剣閣険[けんかくけん]も最早時間の問題と成った。
遂に魏の将軍司馬懿[しばえい」は、蜀漢を攻め滅ぼした。
魏の将軍司馬懿は諸葛亮と互角に戦い、又遼東を平定し蜀漢を壊滅させた大功労によって
、其の子孫は権力を振るうに至った。
二百八十年、司馬懿の孫司馬炎[しばえん]は、魏の帝位を奪い晋の武帝[しんのぶてい]
と称した。
同じ二百八十年、武帝は呉の国を滅ばし、後漢末より八十余年、中国一統をなした。
[此の項終わり」
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