都城の邪馬壹國
著者 国見海斗 [東口 雅博]
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日向は記紀に記されるように神話の世界であり、神武に纏わる東征によって人皇初
代であるが、甲寅歳天皇年四十五高千穂宮に在り、冬十月天皇自ら将として海を航海
して船出をされでかけられたのである。
此れは私の日向考察であるが日向は外部から見る日向は一つであるが日向内部か
ら見る日向は二つ在る。
今の宮崎県は南北におよそ一七五KM、東西に約七〇KMの長方形である。
其のうち高千穂峰を中心とする都城盆地と加久藤、小林両盆地を合わせた総面積は
県全対の二二%を占め、摩藩が領有し日向の中でも他の宮崎県と一線を引いた鹿児島県
の一部の様相を呈している。 実は此の様相こそ、二つの日向の秘密の部分である。
宮崎の高速道路を宮崎から鹿児島、熊本方面に向かって車を走らせ、次のインターであ
る田野町を過ぎてからおよてそ二〇分、山之口のサービスエーリアを過ぎたころ突然フロン
トガラスに広大な大盆地が広がる。
都城盆地の東から南を構成する鰐塚、日南山地の分厚い壁、北西には高千穂峰を中央
に仰ぐ務島連山、高速道路が二つに分けておよそ二〇分、いまぬけだした深い山の山並
みは北東の青井岳山地である。
此の深い山岳の秘密を暴こうと徳川幕府は、幾度隠密を飛ばしたことか数え知らない。
薩摩の主は探すぎる山並みの陰に四方八方関所を設け、他の世界の者を例え日向の
人たりとも厳しく出入りを制限して、薩摩の方言に特殊な都城弁を織り混ぜてよそ者を監視
する特殊部落を形成した。
最近は関所が無く出入りが自由だが、言葉の発音が異なると忽ち何処から釆たかと質問
を浴びせられる。
此の風習は相手にとって迷惑千万であるが、本人達にとっては便利な情報源で無意識に
インプットされていることが多く、何か知識を探られているようにも見える。
本人達は至って陽気だが、此の感覚は今に始まったことでは無い様で、南九州の隠され
た肥沃な町に起因しているに違いない。
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全部が全部とは言えないが、二た従兄弟とか三従姉妹と云う実態は、当然のようでも
有る。
律令の時代の分家親族が密集し戸長制度を偲ばせて、何か歴史のタイムカプセルに
遭遇している感じである。
此のような町だから斬新なものに対する感覚は、老いも若きも敏感である。
此の感覚は町を営む長老連中よりも、庶民生活を営む一般市民に多く見られる。
だから古い伝統あるもはどんどん消されて、国道十号線沿いや二六九号線等は西部開拓
の町並みを思わせる。
中郷村史には、残念ながら中郷村の歴史について大化の改新以前は何等伝わっていな
いと書かれている。
私は此の一行を以て、此の歴史書を編纂するために選ばれた人をしてもう少し時代背景
を探る必要があるのではないかとも疑いたくもなる。
例えば中郷と云う地名であるが、此れを説明するために先ず大化の改新について説明し
なければ成らない。
[要約するために広辞苑を参照する。]
第三六代高徳天皇の名は天万豊日[雨の万日]またわ軽[かる]と云う。
大化元年、六四五年、摂津の国長柄、豊崎宮で即位された。
大化の年号は、公式に採用された我が国最初の年号である。
中大兄皇子[なかのおおえのおうじ、後の天智天皇]を中心に、中臣釜足ら革新的な朝廷
豪族が蘇我大臣家を滅ばして開始した、古代政治上の大改革である。
孝徳天皇を立て都を難波に遷し、翌春、私有地、私有民の廃止、国、郡、郷、里、保、戸、個
人制による地方行政の中央集中を敢行、戸簿、計帳の作製による班田収授法の実施、調、庸
等税制の統一、の四項目からなる改新詔を企布、改革開始以来約五年で一応の成果を上げ
、古代東アジア的な中央集権国家成立の出発点となった。
しかし改新詔の目標である律令国家の形成には、六七五年の壬申の乱後の天武、持統朝
の改革が必要であった。
以上の改革をかい摘まんで具体的に解説すると大化前代のことや大化改新が我が都城に
も大きな影響を与えたか
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能く解るし、決して何も無かったというような荒れ果てた土地であったというようなことは決し
てあり得ない。
孝徳天皇[こうとくてんのう]は中大兄皇子を皇太子に任命し、中臣鎌足[なかおみのかま
たり]を内大臣、阿倍倉梯麻呂[あべのくらはしまろ]を左大臣、蘇我石川麻呂[そがのいしか
わまろ]を右大臣に任命して、先日、唐から帰朝した高向玄理[たかむこのげんり]、僧、みん、
を顧問として隋唐の制度を取り入れ実施した。
此れまで臣[おみ]、連[むらじ]、国造[くにのみやっこ]等が私有土地や私有民を全て朝廷
の公地、公民にすると云うことである。
新たに国、郡を分け、国造、県主[あがたぬし]をやめて、国司[くにのつかさ]、郡司[ぐんの
つかさ]を置く。
戸籍を作り班田収授の法に従い、男女一人一人に口分田[くぶんでん]を分け与える。
税の法律を定めて租[そ]庸[よう]調[ちょう]の規定を設ける。
駅馬[えきば]、傳馬[でんま]の制度を定める。
以上をさらに詳しく説明すると次のようになり、此の内容は各々の郡司から郷長に伝えら
れ更に戸長から個人に説明された。
口分田は各個人に分け与える田のことを云うが、これは男子に田圃二反四畝、女性に其
の三分二と定めた。
班田収授の法は口分田により男女ともに一定の田を分かち与えられるが、しかしその人
が死亡したときは授けてあった田を朝廷に収める法律を云う。
何人も生まれて六歳になると男性には二反四畝の田を、女性にはその三分の二を分かち
与えて耕作させ六年毎に年貢の調査を行った。
租は田地の収穫より稲一反一畝より二束二把を収めることが義務ずけられた。
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庸は二一歳から六十歳迄の男性を正丁と云うが、正丁は年に十日づつ力役を課せられ
ることを云う。
若し其の役を逃れようとすれば、あるいは欠くようなことがあれば布又は米を収めなけれ
ばならない。
調は織物や其の土地風土にある名産、特産の類いを収めることを云う。
駅馬、傳馬は朝廷の官吏が公用で諸国に出掛けるとき乗り物として使用するために各駅に
備え置く馬のことであるが、仕事を急ぐ場合には駅馬に、さほど急がないときま伝馬を利用した。
ここに都城、中郷及び近郷に関係する国の決まりを追求すると第十三代政務天皇は一三一
年から一九〇年まで即位された天皇であるが、山や川の形勢を見て国、県を決められた。
更に国造、県主、稲置を置き地方自治の管理を始めて開いた。
稲置は、朝廷の御料田として使用する稲を蓄えて置く倉を管理する職で、屯倉[みやけ]
を掌握する立場の職である。
これなどは鳥見山の山裾にある田部村今の豊満町と大いに関係した法律と見ることがで
きる。
田部は朝廷から認められた制度とは思えないが、此の田部があればこそ稲置の制度や屯
倉と云う言葉が発展したのである。
さて私は日向が二つあると云うことを先程申し述べたが、一つは西都を意識した日向であ
り、もう一つは霧島連山の中心的存在、霊峰高千穂の霧島盆地、即ち都城盆地である。
霊峰高千穂が描く山島に依って国邑をなす、正に古代中国が代表的な一文字、山を只て
日本を表し後に大和と称えた倭国屈指の名山である。
霊峰に纏わる言い伝えは枚挙に暇がない。
其の中でも今は語る人もいなくなったが、鳥見山がある。
鳥見山は高千穂峰と対峠して、東南、西北に跨ぎ会う都城盆地の懸け橋。
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都域中郷田部の鳥見山は江戸時代の鳥瞰図しか今は無い。
今日の鳥見山は既に名を変えトンビガ丘で姿を残す。
巡らす山岳はいずれも奇しびな山並み。
とりわけ神々しく起立する山、これこそ鳥見山霊畤である。
都城の東南一里半、鵜の岡の西南、鷹取山の東北に連なり、向かい合う金御岳の間には
安久川が流れ、此の両側の渓谷を千穂と呼び、此の名は霊峰高千穂の起源でもある。
今は信じる人もいない忘れ去られた山ゆえに、付近は遺跡を保存するための近代的な防
災を意識した仕事ではなく虫食いのような工事が施され、河川の護岸工事も聞知石なら未
だしも歴史的風物の重みを少しは過るが、ケンチブロックでは味わうすべも無い。
徳川家が天皇家を蔑ろにした神道の天誅とも思える廃仏毀釈は、当鳥見山にも及んで宇
治平等院の所有者、関白太政大臣藤原頼通と、鳥見山に注目して、上古から引き継がれ卑
弥呼の無念の死後以来絶えて忍んだ鳥見山の豪族田部一族と結託した平の季基は、鳥見
山の山裾に壮大なる平安京と日本最大の大荘園を画策して実現、それを奉じて京都に夢を
与え、其の写し絵を鳥見の裾に再現したが、明治を向かえると共に霧となり消えうせたので
ある。
誠に兵共の栄華盛衰を見る鳥見山である。
常に王者の貫禄を持つ鳥見山は、第四十代、天武天皇の六七三年即位のとき着手した、
国史の編修の中に始めて文字として登場する。
稗田阿礼[ひえだのあれ]という人物が、天武天皇の勅命で過去に読み習い記憶したこと
と帝記、先代の旧辞を織り混ぜて太安万侶[おおのやすまろ]に語り聞かせ、元明天皇の勅
を請けた太安万侶は選録して和銅五年、七一二年、奉献した日本最古の歴史書を古事記と
云う。
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日本書紀は奈良時代七二〇年、舎人の親王[とねりのしんのう]、大安万侶等の撰進による
我が国最古の勅撰の正史である。
神代から持統天皇までの事績を漢文で記述した編年体の歴史書である。
編年とは歴史上の事柄の新旧、前後の関係を明らかにして年代的序列を付ける事である。
編年体とは歴史編纂の一帯を云い、年月の順を追って事実を記す事を云う。
此の書の場合、神武天皇の皇記を大安万侶等が如何に算定したのか、記年法に基づく還暦
と干支からもう一度見直し、それではどの時代に相応しい天皇なのか知るべく編年体の日本書
紀を採用する。
新編皇朝史略では日本書紀と同様、編年体を使用して古代天皇の活躍された年月が明らか
である。
神武四年甲子春二月、BC六五七年のことである。
「我が皇租の霊や天より鑑を降ろして朕躬を光助す。今諸虜既に平らき。内事なし以て天神
を郊祀し用て大孝を申すべしと。則ち霊畤を鳥見山に作り皇祖天神を祀る。]
意味を私なりに解釈すると、我が祖先の霊が天より光り輝く鑑を降ろして私自らをお助け下
さった。私と戦った敵は既に平定し平和である。
国の政務に立ち戻り我が祖先と万物の神々を祀り、感謝の気持ちを現したい。則ち田の
神の畤を鳥見山に作り、我が祖先や全ての神々を祭祀する。
これが本当の鳥見山の役割である。
偶然かもしれないが日向の都城、高千穂峰の中郷に東南に対峠して鳥見山が存して
いるのである。
更に偶然が重なるが、奈良の榛原と桜井に鳥見山が、一山ずつ存し麓に等弥神社や登
美が丘神社が祭祀され、神武天皇をお祭りし年中の例祭が賑やかに執り行われている。
此の付近は外山と書いてトビという大きな町を構成している。
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更に桜井の鳥見山の等弥神社では、昔、鳥見山の土の中から鳶の埴輪が発掘されたの
でそれ以来鳶を祭神の一人に加えお祭りしているという。
此の等弥神社の周辺を見るに誠にトビで。固められている。
等弥にしても、登美が丘にしても町の外山トビ、或いは祭神のトビも全てトビで守られ其の
ガードの探さは計り知れない。
神武天皇はいかなる考えで鳥見山に霊畤を作られたのか少し疑問を感じるところも無い
では無い。
何故なら神武天皇が東征の折り生駒に入る手前の河内の国草香邑青雲白肩津に泊まら
れたが、それを待ち向かえて行く手を阻み、兄、五瀬命に痛矢串で深手を与えたのが登美
能長髄彦である。
登美は鳥見に通じ、鳥見をとみと呼ふ場合がある。
奈良の近鉄生駒線と十年前の私の時代は其のように呼称したが、今は片町線、学研都市
線と云う二つの名前におき変わり古代歴史街道を有する大阪、奈良を繋ぐ路線がある。
実は此の路線の中に東生駒と富雄と云う二つの駅が現存して、この駅の間に鳥見と云う
町がある。
古代二千六百六十有余年前、登実の長髄彦は地元豪族の酋長として、中州、奈良に東征
の為に日向の国から渡ってきた神武天皇を阻止しようとして戦いに挑んだが、神武天皇の兄
である五瀬の命に痛手を負わせ一度は勝利し敗退させたものの、戦略を変え、軍備を整え、
金の鳶を従えた神武天皇は再度戦いに瞼んだ。
其のとき幸いにも登実の長髄彦の鳥見邑に内紛が勃発して、参謀本部長官、将軍、饒速日
の命が登実の酋長を伐り殺し神武天皇の軍門に下ったのである。
同時に切り込んで来た敵の軍勢は、神武が立てた長弓に燦然と輝く金の光に目が眩み、忽
ち軍勢を崩し敗退したのである。
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其の輝く光の源は長弓の先端に止まった一羽の金の鳶であった。
此の時代、二千六百六十有余年前、アリストテレス、プラトン、アルキメデス、ピタゴラス依り
以前、我が国において神話とは云え、光で大量殺戮した近代兵器は前代未聞である。
アインシュタインでさえ光り殺戮の自信のなさから一か八か広島、長崎に金の鳶を実験的
に投げ付けなければ、其の正体が不明であった。
斯くの如く奈良の神武周辺は鳶と鳥見で覆われている。
話を九州の南端日向の国、当時の都城、中郷の鳥見山に話を移そう。
偶然かどうか判断に苦しむが、中郷の豊満町に島見山が存している。
鳥見山の麓の町豊満は明治三年田部村から改名したものである。
田部の古さは日本を代表するぐらい古く、いつのころ其の名を演いたかそれを説明できる
郷土史家もいない。
しかし播磨風土記に[難波高津宮天皇之世召筑紫田部令墾此地之時以五月集聚此岡飲
酒宴]とある。
難波高津宮の天皇の世とは第十六代仁徳天皇の御代である。
皇朝史略によると第十五代応神天皇の第四子で、農業を奨励した天皇とある。
在位年間は三百十三年から三百九十九年の八十六年間である。
仁徳八十七年己亥春正月、三百九十九年、百十歳崩御すとあり、二百八十九年己酉に生
誰されたことになる。
中国皇帝晋の武帝は二百八十年四十五歳のとき呉を滅ばし晋の一統を果たし大康初年
と号す。
晋の武帝二百九十年薨去。享年五十六歳。
二百九十年頃、倭国女王壱与は既に奈良遷都を果たし年五十七歳に達していた。
二百八十九年東夷、絶えて遠路、三十余国洛陽に詣で捕虜を献上する。
これは仁徳天皇のお生まれになったころの我が国と我が国が中国に対して敬意を謝した
好意の歴史であるが、此このに場に仁徳天皇がお出ましになると国の最高権力者が二人
現れいずれが誠かという事にも成りかねない。
宮崎県の観光関係の実力者から県は国と繋がり、若し邪馬台国が宮崎県にありそれを公
表するとなると暗に国が持つ皇統を乱し、歴代天皇の順位が変更される事態が生じる。
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凝れは由々しき事態であり知ったからと云って県を巻き添えにすべきでない。
あくまで奈良説や九州説で留め置くのは其のためであり、現に国立関係の先生は素直に
それを認められ、兎角煩く追求しているのは、民間の学者や民間人に多く先ず県が邪馬台
国を承認するようなことをさせては成らない。
僕から電話して其の話にはのっては成らないと県の連中に通告して置く。
私の魏志倭人伝はその方に対して痛烈に印象を与えたのは誠に事実である。
そこで天皇それぞれの方にご迷惑をかけずに歴代天皇の順位を守りながら作者太安万
侶の天皇に対する不敬罪を見出そうとしたのが、次の方法である。
初代神武天皇から第十六代仁徳天皇までそれぞれの方の寿命は編年体により皇朝史略
に記されている。
此処で下記に示した通常の矛盾点は当時のピタゴラス[九一歳]、プラトン [八一歳]、
アリストテレス [六三歳]、アルキメデス [七七歳]、アレキサンダー大王[三五歳]、諸葛
亮孔明[五四歳]、女王卑弥呼[七六歳]魏王曹操[四二歳]、劉備玄徳[六二歳]等故人は
幾らでも居るが、我が国の西暦前後の歴代の天皇の長寿は他国や女王卑弥呼と比較し
ても少し奇異に感じる。
願わくば太安万侶の誤記であることを祈る。
それでは何が誤記なのか、それは記紀の著述を依頼された天皇家に対して神代を大事
にするあまり還暦の取り方を操作したため生じた年代詐称である。
干支を生かし六〇年毎の年代を繰り上げる方法であり、此の方法であれば氷河期に至る
までの年代、天御中主神 [あめのみなかぬしのかみ]の一八000年前に立ち所に到達し、
或いは追いやり干支に庇を残すと云うことはあり得ない。
一八〇〇〇年は六〇の倍数に当たるからである。
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神武天皇以下各天皇の崩寿の場合も、六〇年を差し引くことによりやっと安らかに、永眠
されることと思われる。
又それによって魏志倭人伝の女王卑弥呼と出会う場面も考えられ、空白の歴史まで時代を
うずめ尽くして古墳時代を明らかにするに違いない。
又此の計算式の発見によって各天皇の真実性が明らかにされる場面が想定され、記紀の
主張が世界に認められるかも知れない。
それでは各天皇から六〇年を差し引くことにする。
@、神武天皇、〇七六年丙子春〇三月十一日、崩寿二二七歳は七七歳
A、綏靖天皇、〇三三年壬子夏〇五月00日、崩寿〇八四歳は二四歳
B、安寧天皇、〇三八年庚虎冬十二月00日、崩寿〇五七歳は五七歳
C、懿徳天皇、〇三四年甲子春〇一月00日、崩寿〇七七歳は一七歳
D、孝昭天皇、〇八三年戊子秋〇八月00日、崩寿一十四歳は七四歳
E、孝安天皇、一〇二年庚午春〇一月00日、崩寿一三七歳は七七歳
F、孝霊天皇、〇七六年丙戊春〇二月00日、崩寿一二八歳は六八歳
G、孝元天皇、〇五七年癸未秋〇九月00日、崩寿百十七歳は五七歳
H、開化天皇、〇六〇年癸未夏〇四月00日、崩寿百十一歳は五一歳
I、崇神天皇、〇六八年辛卯冬十二月00日、崩寿百二十歳は六〇歳
J、垂神天皇、〇九九年庚午秋〇七月00日、崩寿百四十歳は八〇歳
K、景行天皇、〇六〇年庚午冬十一月〇〇日、崩寿一〇六歳は四六歳
L、成務天皇、〇六〇年庚午夏〇六月〇〇日、崩寿一〇七歳は四七歳
M、仲哀天皇、〇〇九年庚申春〇二月〇〇日、崩寿〇五二歳は五二歳
N、応神天皇、〇四一年庚午春〇二月〇〇日、崩寿一十一歳は五一歳
O、仁徳天皇、〇八七年己亥春〇一月〇〇日、崩寿一十一歳は六十歳 |